2002年7月23日火曜日

善と悪

天才と狂人との差は紙一重だ。このように言ったのはロンブローゾである。また、精神科医で病跡学の研究者でもある福島章さんは、天才とは自分の中に巨大なデーモン(悪魔)を飼育していると言う。

先ず、聖書の御言葉を引いてみたい。ローマ人への手紙8:15~25には二重性に苦悶するパウロの心象が描写されている。「わたしは自分の欲する事は行なわず、かえって自分の憎む事をしているからである。善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」。

パウロは非凡がゆえに内心の相剋に苦悩していたのだろうか。決してそうではない、人間の心の中には「狂気」が潜んでいるのである。

大変興味深いことに17世紀のフランスの哲人パスカルは、『パンセ』(随想碌)の中でパウロと同じ事を述べている。「人間は天使でもなければ、獣でもない。しかも不幸なことは、人は天使のように行動しようと欲しながら、獣のように行動する」。

ユマニストの渡辺一夫さんも、人間はとかく天使になろうとして豚になる存在であることを説いておられる。

スティーブンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』は、二重人格者の代名詞として、世界中の人々に広く知られている小説であるが、文芸作品にはパウロの二重性、即ち内心の相剋をテーマとして取り扱っているものが数多である。ロシア文学においてはゴーゴリ_の『狂人日記』に始まり、ドストエフスキーの『二重人格』、『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』などが挙げられる。

中でも、本欄で一度紹介をしているが、「神と悪魔が闘っている。その戦場こそが人間の心なのだ」と道破した『カラマーゾフの兄弟』に於ける長男ドミトリーの台詞は、善と悪に苦悶するパウロの心情を実に見事に描出させている。

日本文学においては、夏目漱石の『こころ』の主人公である先生が、善と悪が潜む矛盾した自己の心情に追い詰められていく。ここに挙げた小説の数々においては、あえて粗筋は書かないでおく。また、そのためのスペースもない。その理由は、聖書を正しく理解しているクリスチャンが、この様な文学作品を積極的に熟読することによって、パウロの艱苦や原罪、更には自我の実現を、視点を変えて考察することによって、キリストの愛をより一層深く感じとっていただくためである。

一つ驚いたことは、親鸞(1173~1262)の著書『歎異抄』(たんにしょう)の中でも、善と悪の奇妙な二重性が描かれていることだ。「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」。

これは悪魔が取り合わない善人が極楽に行けるのであれば、善と悪に苦悩しながら悪の道へと引きずり込まれて、罪の意識に苦しんでいる悪人は、尚更極楽へ行けるというものである。また、トルストイは善を行なうには努力が必要であるが、悪を抑制するには一層の努力が不可欠だと喝破している。

神様から祝福されるということは、同時にサタンからも攻撃を受けることになる。金品で祝福されたら、神の武具で身を固めて、決して律法的にはならないで、益々御言葉に硬く立たなければならない。「神が教会をお建てになると、悪魔はその側に礼拝堂を建てる」。これはドイツの諺である。

最近になって知った事であるが、宗教改革者のルターが、自分は義人にして悪人であることを吐露していた。何故なら、わたしは悪をなすからであり、しかも、わたしがなす悪を憎むからである。

最後に私が最も敬愛して止むことのない、狂気の頭にして偉大なる詩人、ボード・レールの詩集『悪の華』から、善と悪の二重性の詩を引用する。

俺は 傷であって また 短刀だ
俺は 殴る掌であり 殴られる頬だ
俺は 車裂きにされる手足で また裂く車だ
犠牲(いけにえ)であって 首斬り役人だ

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