2004年8月1日日曜日

第五十一回 謙遜

ぼくは今、ロサンゼルスのダウンタウンから、約20キロ・メートル南に位置するガーデナ市に住んでいるが、自宅から歩いて行ける距離にオールド・タウンがある。アーケードには昔ながらの小売店が軒を連ねていて、ひもすがら長閑な雰囲気が漂っている。それでも昼時になると近隣のビジネス・パーソンや労働者たちが、それぞれの目当てのレストランへ胃袋を満たしに集まって来るので、この時ばかりは、一日のうちで街が一番活気に満ち溢れる。
オールド・タウンの一角に、五十年余り続いているイタリアンの総菜屋がある。この店では焼き立てのパンも売り物にしているせいか、早朝の開店から閉店まで客足が絶えることがない。販売員の数が通常よりも多く配されていて、全員がきびきびとした態度で働いているから、キャッシャーの前に列が出来ても、客は瞬く間に捌かれてしまう。
ぼくはイタリアから直輸入された瓶詰めのアンチョビーを購入して、トーストの上に載せて食べるのが好きだ。サンドイッチやパスタにしても、コーヒーショップや専門店で味わうよりも廉価でうまい。けれども、ぼくはこの店に好感が持てない。
親類縁者だけのスタッフは、一見、淡々と振舞っているように見えるが、接客する際の言葉尻や挙措が嵩高になってしまっている。中には諸に仏頂面の店員もいて、買い手にしてみれば、これほど不愉快なことはない。店が過度に繁盛すると、経営者たちの心はさぞ驕るのだろう。
十何年か前に、ハードロック・カフェのTシャツが一世を風靡した。全米の主要都市にはハードロック・カフェがあり、その都市の名前がTシャツにプリントされている。ロサンゼルスではビバリーセンターという大きなショッピング・モールの一階にあり、日本の若者がLAにやって来ると、こぞってそのTシャツを買いに走ったものだ。
最盛期には観光バスがハードロック・カフェの前に横付けにされて、次から次へとTシャツを求める人だかりで賑わった。ところが、観光客の間から不満の声が続出した。Tシャツを購入する際に、店員が商品を放り投げるのである。つり銭をも投げつけられたと憤慨する者もいた。店員は皆十代の若者たちであったが、彼らは何か勘違いしているらしく、乱暴な態度が顰蹙(ひんしゅく)を買った。
二昔ほど前に、リトル東京にあった日系のスーパーマーケットでも、同じようなことがあった。その頃はまだ、日系の大型マーケットがLAには進出しておらず、日本食を買い求めるLA在住の日本人は、その小さなマーケットに集中していた。週末や夕刻になると店内はごった返し、経営陣は買い物客の群れに嬉しい悲鳴を上げていた。ところが、従業員の態度が横柄なのである。キャッシャーでは、買い物で一杯になったショッピング・バッグを、投げつけるようにして渡すのだ。
ぼくが初めてそのスーパーで買い物をした時のことを、今でも鮮明に覚えている。購入した商品までは記憶にはないが、小さなものを二つほど買った覚えがある。勘定の後で、店員さんは商品を手渡しながら、一言サンキューとでも言うのかと思っていたら、いきなりキャッシャー横のテーブルの上に、商品の入ったショッピング・バッグを叩きつけるようにして投げた。
ぼくは呆れて、その店員の顔をまざまざと見たが、苦虫を噛みつぶしたような顔で、いけしゃあしゃあと次の客の世話をしている。その後、この店は同じリトル東京内で移転して売り場を拡張した。けれども従業員の態度は益々増長するばかりだった。
やがて時代は移り変り、日本からの大規模なスーパーマーケットが、LAにも進出して来た。従ってこの不遜極まりないリトル東京のマーケットは、遂に蕩尽(とうじん)してしまったのである。
高ぶりおごる者を「あざける者」となづける。彼は高慢無礼な行いをするものである。(箴言21:34)
「貧困に耐えるのではなく、貧乏を愛する者が真の超人である」。このようなことを語ったのはニーチェである。ぼくはこの言葉から、謙譲の人、キュリー夫人の偉業を思い浮かべる。
キュリー夫人の生活は、正に貧乏のどん底であった。厳寒の夜、毛布や石炭を買うお金がないために、タオルやシーツ、そして洋服等を重ねて、掛け蒲団の代わりにして眠った。それでもまだ寒いので、その上に椅子を載せて寝たというエピソードがある。
後にキュリー夫人は、ラジウムの発見によりノーベル賞を受賞するが、特許を取得して営利に走る道を自ら退けてしまった。ラジウムの治療を必要としている病人の足もとを見ることは、科学者とクリスチャンの精神に反するからである。キュリー夫人は私利私欲を投げ捨てて、自分の功績から一銭もお金を受けなかったのである。
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶるものをしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。(ペテロ1・5:5)

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