先般、ラ・クレセンタにあるゴスペル・シロアム教会の礼拝で奨励をした。
信徒が二十人に満たない小さな教会であったが、講壇に立つと、いろんな表情が目に飛び込んで来た。目を瞑っている人、深刻な顔、俯いている人、暗い表情、微笑んでいる顔、柔和な目。
人前で語ろうとする間際になって、聴衆の表情が柔和であったり微笑んでいたりすると、つい緊張感が和らいで安堵することがある。
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である。本来、クリスチャンというものは、この九つの御霊の実を内包する、穏やかな品性が備わっていなければならないのだろう。
サウスベイ地区には、ぼくの行き付けのラーメン屋さんが二軒ある。一つは、病み付きになるほどチャンポンが滅法うまい店。もう一方は、ニンニクがたっぷり入っている餃子の味が、たいそう気に入っている。
この二つのラーメン屋には、終始二、三人のウェイトレスさんが働いているが、両方の店に、一人だけ柔和な表情をしている壮年のウェイトレスさんがいる。ぼくはいつもオーダーを告げて、簡単な挨拶を交わすだけであるが、短いやり取りの中に、絶えず微笑を忘れない彼女たちの隅に置けない気配りと、さりげない優しい心遣いに、つと、安らぎを覚えてしまうのである。
クリスチャンであるならば、他者に対して、自然と配慮できるような物腰を備えていたい。そのためには、「いつも喜んでいなさい」との御言葉が示すように、のべつ明るく振舞っていることが神様に喜ばれる態度である。
ぼくはこの「いつも喜んでいなさい」という御言葉を咀嚼(そしゃく)する度に、砂山(いさやま)節子さんのことを思い出す。砂山さんのことは飯沼二郎という方が書いた随想、『ほんもののキリスト者』で初めて知った。随分と感銘を受けたので、その随想の抜粋をここに紹介したい。
砂山(いさやま)節子さんは、1941年、順調に発展しつつあった沼津における教会生活をすてて、夫と共に中国(満州)の熱河に渡った。奥地の興隆で、夫を助けて宣教に献身していたが、国共内戦の悲惨のなかに夫と子供を失い、みずからも栄養失調のすえ失明した。日本に帰るというあてもなく、二人のおさない子供をかかえ、病院の廊下で絶望にうちひしがれていたとき、「数えてみよ、一つづつ」という讃美歌が心に浮んできた。おまえ、目が見えなくても、まだ、歩けるじゃないか。まだ、聞こえるじゃないか。まだ、話せるじゃないか。まず、肉体的な恵みを一つづつ数えているうちに、「つねに喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ。これ、キリスト・イエスによりて、神の汝らに求め給うところなり」というみことばが、はっきりと示された。
「主よ、愛する子供を二人天におくり、主人を天におくり、目が悪くなって、それでも喜ばなければならないのでしょうか」と自問自答しながら、もし、この地上生活の苦しみで、わたしがうなだれて無信仰のような状態になってしまったら、十字架の愛にたいして申しわけがないと気がついたときに、すべてを主のみ手にゆだね、だれもいない病院の廊下から立ち上がったとき、ほんとうの平安が心にきた、という。
砂山さんにお会いする前には、過去の生活をおもい、おそらく、暗い感じのかただろうとおもっていた。ところが、お会いしてびっくりしたことは、そのような過去をもつ人とは、とうてい思えないほど晴々としたお顔をしておられた。この世の目からは、どんなに悲惨な生涯に見えようとも、神に用いつくされた生涯こそ、ほんとうの喜びと平安にみちあふれるものである。
だから、キリスト者の本物とニセ物は、このあかるさの有無によって識別できると、わたしはおもっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿