2011年9月25日日曜日

ご挨拶

2002年から2005年まで、教会のホームページの中のブログ、『ラッパを吹くひつじ』は、私の意思に反して中断。4年後に立ち上げた『帰って来たひつじ』も、同じく中断。

今、神様の祝福の内に、『復活したひつじ』が船出しました。Bloggerに読者に祝福を!

2005年11月7日月曜日

第八十回  近所の蕎麦(そば)屋

拙宅の近くに旨い蕎麦(そば)屋がある。わざわざ日本から取り寄せた蕎麦の実を、石臼で惹いて蕎麦粉を製しているらしい。アメリカ広しといえども、手打ちの蕎麦を食べさせてくれる日本食レストランは、そうざらにはあるまい。それだけに希少価値があるというものだ。
ぼくは仕事の合間を見計らいながら、気が向くと蕎麦屋に足を運ぶ。いつも注文する品は、蕎麦粉だけしか使っていない十割蕎麦と決めている。三年ほど前から、店の屋号を染め抜いた江戸紫の暖簾を潜っているが、未だに同じものしか用命したことがない。蕎麦の食べ方はというと、ここは一応アメリカなので、蕎麦をつけ汁に浸した後は、音を立てずに静やかに食すことにしている。そして、時おり付合わせの掻揚げを箸で摘んでは、これまたつけ汁に浸してから口へと運ぶ。薬味が乗っている手塩皿には、葱(ねぎ)と山葵(わさび)が盛られていて、うずらの卵などは配されていない。その代わりに、つけ汁の中には刻んだ三葉があしらわれているので、つと和国の風情を察してしまう。
蕎麦には多くの品種があるらしいが、通常は夏蕎麦と秋蕎麦に大別されているようだ。歳時記によると蕎麦の季語は秋になっている。アメリカに住みながらにして、日本の爽秋を味わえる一品といってよいだろう。
箸で摘み上げた蕎麦をつけ汁に浸していると、めくるめく秋の声が仄めきだして、秋麗(うらら)な故郷の彩が脳裏にたなびく。やがて三葉の青い香りが鼻孔に漂い、瑞々しい香気が脳の内部にぱーっと吹聴される時、茹でたての盛(さか)りの蕎麦が、つけ汁のなかで綯い交ぜになっている葱と山葵と三葉のスパイスを引き寄せると、いよいよぼくは、まったりと芳しいミニュエットの様な食感に酩酊するのだ。その、歯応えのある蕎麦の妙味たるや…… 一昨日、ぼくはこのような思いにかられながら、旬の蕎麦を賞味したのである。
江戸っ子は盛蕎麦を食べる際に、つけ汁を殆んどつけないで食べるのが流儀であると聞く。つけ汁の濃度にも違いがあるのだろうが、薄口を好む関西辺りでは蕎麦をつけ汁にたっぷり浸してから、実に旨そうにお蕎麦を啜り上げて食べている。「死ぬまでに一度でよいから、つけ汁に蕎麦を浸して食べてみたい」。定かではないが、このような江戸の川柳があった。痩せ我慢も江戸っ子にとっては、小粋な気風に通ずるのだろう。
蕎麦は酒の肴にもなるし、飲んだ後の仕上げに食しても喉越しが良い。件の蕎麦屋には、おつまみ用のメニューが用意されているので、夕刻からは飲み客で賑わうようになる。先ほどから、カウンター席に鎮座しているぼくの前で、この店のマネージャーらしき三十路半ばの女性が、仕入れ先より電話を掛けてきた店主から、今晩の「おすゝめ」としてメニューに載せるネタを聞きとりながら、厚手の白い紙に書き込んでいる。
電話での遣り取りは、ぼくの目と鼻の先で行なわれているので、話しが筒抜けである。女のマネージャーは、寒鰤(かんぶり)の「カン」はどんな字を書くのか、電話で店主に訊いているのを耳に挟んだ。ぼくはあきれてしまった。日本食レストランに携わるマネージャー兼ウエイトレスが、しかも、酒の肴を取り扱う者として、プロ意識に欠けるのではないか。もし顧客から寒鰤とはどのような魚であるのかと問われたら、この女性は果たして説明できるのだろうか。ぼくは他人ごとながらも、あやぶみを抱き始めたのである。
日本近海で獲れた寒鰤の刺身はトロよりもはるかに旨い。旬は冬季である。その上をいくのがヒラマサである。従ってお品書きのコピーは、『トロより美味な寒ブリの刺身』。これくらいの当意即妙がなければ、マネージャーとして失格である。
カウンター席に座っている客に対して、カウンター越しに料理をサーブするレストランがある。それでも帰り際には、ビルの下にチップを置かねばならない。何も、せこいことを言っている訳ではない。全ての給仕に言えることであるが、客はプロのサービスを期待しているのである。海外へ出向いて行って、同胞のレストランで働くことは、比較的容易くて直ぐにお金になる。だからといって、踏み台的な職場意識を持つことは止めてほしい。曲がりなりにも、顧客から代金を頂くのである。お金を貰う以上はプロである。ぼくが言いたい事は、チップを目当てに働いている向上心のない素人の給仕は、客側からすれば迷惑千万である。料金の15%以上のチップには、プロとしての如才無いサービス精神への、謝礼も含まれているのである。
何時だったか、日本蕎麦よりも栄養価が高いということで、一頃評判になっていた韃靼(だったん)蕎麦を味わった。乾麺を茹でたものであったので、手打ちの蕎麦には敵わなかったが、それでも大層美味しく頂けた。韃靼とはアジアとサハリン(樺太)島との間にあるタタール海峡のことである。日本では間宮海峡と呼んでいる。
「てふてふが一匹、韃靼海峡を渡って行った」
これは『春』と題した安西冬衛の、一行詩の傑作である。てふてふが一匹、間宮海峡を渡って行った。これでは詩にならないが、中国名の「韃靼」に置き換えることによって、味わい深い詩に変貌を遂げる。
間もなく時刻は、午後一時になろうとしている。そろそろ昼時の人の波が引けるころあいである。これからぼくは件の蕎麦屋へ赴いて、秋の暮れをしみじみと味わいながら、ひとりで蕎麦をかみしめる。そして最後に、ほっと息をついて蕎麦湯でもすすれば、ぼくの心持は藹々(あいあい)としてくるのである。

2005年10月31日月曜日

■第七十九回 読書週間を終えて思ったこと

2000年の『子供読書年』から、「ブックスタート」という新しい試みが始まって以来、絵本の読み聞かせがブームとなっている。
この「ブックスタート」とは、イギリスで始まった「正しい読書」を奨励する運動で、乳幼児のための絵本と読み聞かせについて、詳しくまとめられている「ブックスター・パック」を、図書の専門家が一人ひとりの保護者に手渡しながら、アドバイスを施していくことを目的としている。
育児書や子供の教育に関する本を読んでいると、乳児期からの読み聞かせの重要性を説いている項目が必ずある。また、テレビや雑誌などで、時おり見掛ける教育コンサルタントの先生も、読み聞かせの習慣と読書好きな子供に育てることが、いかに将来の学業に有益であるかを力説されている。
若者たちの活字離れが顕著になって久しいが、米国では読書が勉学の基礎を形成しているとの識見が強いので、教師が課題に挙げる書物や、それに基づいた著書を読みこなす技術と読解力を、まず、身につけていなければならない。そのためには乳幼児期からの読み聞かせや、読書の習慣が肝要なのである。
学生時代に、「読書の虫」と呼ばれている同級生がいた。彼は暇さえあれば読書をしていたので、いろんな分野において話題が豊富であった。ある日、一冊の本をめぐって、ぼくは彼と議論を戦わしたのであるが、彼は本の内容に関しては比較的良く理解しているのであるが、彼自身のものの見方や意見、そして思考力が希薄であった。ましてや想像力を膨らました斬新な所見ともなれば皆無であった。彼は活字をいち速く読みとりながら、筋書きを暗記する技術に熟達しているが、自分で考える力や想像力においては明らかに劣っていたのである。
さて、乳幼児期の読書の問題であるが、絵本などの読み聞かせは5、6歳ぐらいまでで一応打ち切って、それ以上の年齢になれば、なるべく絵の少ない本を読み聞かせるようにしたい。理由は、あまり絵にばかり頼りすぎると、その状況を想像させる思考力が解発されにくいからである。或は、絵本を読み聞かせる場合、この物語が次の頁ではどの様な展開になっているのか、頁を捲る前にしばらく間をおいて考えさせてみることが肝要である。また、親の見解も語り聞かせながら、意見交換を楽しむひと時をもつことは非常に有益である。
読書というものは読む速さを競ったり、読んだ本の数で優劣を定めたりするものではない。ショウペンハウェルは、読書とは他人の頭で考えることであると述べているが、自分の頭で考えることのできる人間へと成長するためには、前文の「読書の虫」のような読書家には、絶対にならないように気をつけてもらいたい。
また、絵本や児童書を読み聞かせる場合に、語り手となる母親もしくは父親の、朗読する技術と表現力が豊かでなくてはならない。例えば、登場人物によって声色を変えてみたり、文章に抑揚をつけて語ることである。
ぼくが幼い頃に、母親から絵本を読み聞かせてもらった記憶は殆んどない。絵本の寡少な時代でもなかったと思うのであるが、心覚えがあることは、一寸した挿絵のついた「イソップ」を何度も繰り返して読み聞かせてくれたことである。また、寝入り際に暗い部屋の中で語ってくれた母親の昔話は、固唾を呑んで聞き入ったものである。
ある声楽家がテレビで語っていたことであるが、オーケストラをバックにして歌えることは素晴らしいことであるが、例えば病院にお見舞いにいって、病床生活を続けている患者のためにアカペラで独唱したりすると、大層感激されて、その歌声がいつまでも患者さんの胸の奥深くに残るという。
或は、子供の頃に家族や友達たちと一緒に、何気なしに口ずさんだ「唱歌」の追懐に時おりひたることがあるが、これもやはりアカペラで歌っているので印象深く心に残っているのかも知れない。
ぼくは読み聞かせの場合も同じであると思う。映画館の大画面で、バックに音楽の流れる一流アニメを鑑賞すれば、誰もが感動するであろう。けれども、自分ひとりだけのために母親が語るモノクロの世界は、想像力を最大限に引き上げて聞き入ることになる。これほどスペクタルな環境は他にないだろう。
出来れば物語を語る母親は、本を読まないでストーリーを予め記憶しておくか、即興で話しを組み立てられるぐらいの心構えであってほしい。即興が苦手であれば、前もって粗筋を用意しておけばよい。
そして文字が読めるようになれば、必ず音読する習慣をつけることである。それから、当世は低俗で有害な書物が氾濫している世の中である。書籍は慎重に選ぶことが肝心である。自信がなければ専門家に相談されると良い。ぼくの方針は、短歌、俳句、和歌などを暗誦させた後で、音読の訓練を繰り返すことである。イギリスやここアメリカでも、シェークスピアのソネットを諳んじることは教養であり、感性を錬磨するために用いられている。
従って、私たちの信仰生活も同じである。聖書の音読と聖句を暗誦することによって、大いなる恵みが得られるのである。

2005年10月23日日曜日

第七十八回 Y.M.O.とジョイ

テレビのスイッチを押したら、イエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O.)のライブが始まるところであった。ぼくは坂本龍一の名前だけは知っていたが、彼らがどの様な音楽を演奏するのかは、まったく知らなかった。
一時間余りのライブは、終始コンピューターを駆使して表現されている音楽であった。最初は単調に聞こえていた演奏であったが、ぼくは次第に彼らの音楽の世界へと引きずり込まれていったのである。
大勢の聴衆は両腕を差し上げて、手拍子をとりながら熱狂している。けれどもぼくは、どうしてもライブの聴衆のようなノリにはなれなかった。それは偏に、ぼくがリビングルームで、ソファーの上で踏ん反りながら、テレビを通して演奏を聴いているからではない。多分あのようなノリになる為には、ドラッグか何かが必要だと思った。
Y.M.O.のライブを聴きながらぼくが直感したことは、演奏しているメンバーたちは、あの様な通例のノリは、自分たちの音楽性と相反するものであると思っているのではないだろうか。
ライブが始まって40分ほど経ってから、ぼくの脳髄の一部が、月を越えて銀河系の彼方へと、ぶっ飛ばされてしまった。歌詞がはっきりと聞き取れなかったが、「遠くで風が、歌をうたってる… 」という曲では、なにかしら妙に、気分がここちよくなるのである。そしてそこには、何とも表現しがたいポエジーが湧き出ていて、ぼくの目の前には安楽な境遇が佇んでいた。
そう、ぼくは今、宇宙遊泳をしているのである。だが、意識だけは現実にあって、心持がこの上なくたおやぐのである。Y.M.O.のライブ番組との邂逅によって、ぼくは新しい音楽の世界を魅せつけられたのだ。この体験が詩を書く上において、斬新な暗示にでもなれば良いと思っている。
さて、娘のジョイは、先月から日本語の保育園と、英語の保育園に通い始めた。今までは日本語の保育園だけであったが、来年からの幼稚園と、再来年からの小学校は英語教育となるために、英語の下地をつけることが狙いである。
現在、4歳2ヶ月のジョイは流暢な日本語を話しているが、そのうちに英語が彼女の主流言語となるのだろう。ぼくはどうしてもジョイに、日本語の読み書きが完璧になってもらいたい。家人も同じ思いでいる。従って家庭内での日本語教育は、私たちの責任が甚大なのである。
幸いにもジョイは言語に対して、非常に強い関心を示してくれる。「犬も歩けば棒にあたる」から始まる『いろはがるた』48枚は、3歳のときに全部暗誦してしまった。俳句は週に二句銘記させている。早い時には2、3分で一句暗記してしまう。時折、今まで暗誦してきた俳句を全部語らせてみるが、作者の名前まで完璧に覚えている。
一年ほど前になるだろうか、尾崎放哉の「咳をしてもひとり」という句を覚えさせた後で、就寝前に暗がりのベッドルームで、ジョイに俳句を言わせてみた。すると彼女は、「指をしゃぶってもひとり」と言って笑い出した。ぼくは絶句した。そして、このパロディーの精神を大切にしなければならないと痛感した。
就寝前の読み聴かせは欠かせないが、幼児期から、ぼくは即興で物語を創ってジョイに聴かせてやることがしばしばあった。最近ではジョイが即興で物語を創ってぼくに聴かせてくれる。しかも一本の物語が15分と長い。親馬鹿であると言われるかもしれないが、センテンスがちゃんと整理されていて、文脈にもメリハリがあり、しかも、て‐に‐を‐はを上手に活用している。
半年ほど前に、ジョイが「戸締りを確認するわ」と言うので、「確認って、どういう意味なの」と問いかけてみた。するとジョイから即座に返答が返ってきた。「確かめること」と言うので、「よく知っているね」と、ぼくが褒めてやると、「もちろん把握(ハアク)してるよ」と、切り替えされたので、驚いてしまった。
ビデオを観ていても、本を読んでいる時でも、街を歩きながら、自分の知らない言葉に出くわすと、ジョイは「どういう意味」って、即座にぼくに訊ねてくる。
そこで、失敗談がある。ジョイから「奴隷って、どういう意味」と問われたので、「或る人の言うことにハイ、ハイと応えて、何でも言うことを聞く人のこと」と、答えた。数日後、保育園へジョイを送って行く途中で、「先生のおっしゃることには、何でもハイ、ハイと応えて、言うことを聞かなきゃ駄目だよ」とリマインドしたら、「ジョイちゃんは奴隷なの」と、真顔で目を丸くさせていた。
こないだの日曜日、知らないうちにソファーで眠ってしまった。ぼくはスーパーに買い物に行くつもりにしていたので、目を覚ますと直ぐに立ち上がって自動車に乗った。いつものようにスーパーで買い物をすることには、なんら変わりはないのだが、擦れ違う人や周囲の者が、どうもぼくの方をじろじろと見ているようなのである。中にはぼくの顔を見てクスクスと笑い出す人もいた。
ぼくは不審を抱きながら、ジレットとシャンプーを持って、キャッシャーへ急いだ。店員さんがぼくの顔を見るなり「何か面白いパーティーでもあったのですか」と語りかけながら微笑むのだが、ぼくは首を傾げて掌を頬に当てた。
その瞬間、ぼくの顔から火が出たのである。小さなシールが顔一面に貼り付けられているではないか。鼻の横にはティンカーベル、額にはハート型のピンクのシールだ。全部で十一枚、ジョイの仕業だ。
家に帰ってジョイをつかまえた。「眠っている間に、パパの顔にシールを貼り付けたのはジョイか!」。ぼくが声を荒げると、ジョイはポカンとしてぼくの顔を見詰めている。
「ご免なさい… まさかあなたが、外へ出て行くとは思っていなかったので… 」。家人が申し訳なさそうな顔を首に乗せて、ぼくの後ろに佇んでいた。
ぼくは呆れ返って頭(かぶり)を横に振った。そしてスーパーでの汗顔の至りを話しだしたら、たちまち家人は悪戯そうな目差を咲かせて笑い転げた。

2005年9月22日木曜日

八木重吉

先般、クリスチャン詩人であった八木重吉の詩篇、草稿、感想文、そして断片なども含めた文献を読みあさった。重吉は三浦綾子さんが最も尊敬していた詩人の一人である。敬虔なクリスチャンであった重吉は、信仰の詩を数多く書き残しているが、反面、怒りと哀しみをあらわにした詩も綴っている。
富裕な農家の次男坊として生まれた重吉は、何の不自由もなく育っている。幼児期における心的疾患なども考察しながら、研究者たちの間では、重吉の「かなしみ」の源泉が謎に包まれたままであった。
しかしながら、この度、重吉に纏わる文献をひもといていくうちに、一つの結論に辿り着いたのである。解析を進めるにあたって、文献などの資料が不足している為に、論文に仕立て上げるにはおこがましいが、ほぼ過誤は無いものであると帰趨した次第である。
結論から先に述べると、重吉には先天的な躁鬱気質があったようである。
重吉はしばしば「かなしみ」を吟じた詩人である。この寂寥感は遺伝的、生物学的感情傾向である憂鬱気質が素因となっているのだが、「怒り」の要素は、欲求不満や葛藤など、重吉に襲いかかって来る心因反応によるものと思われる。
「重吉の顔は純粋にさびしさ一本である」。「家庭がいかにも温暖(あたたか)そうなのに、彼の顔はみぞれのようにさびしそうだった」。草野心平は『八木重吉詩集』の「覚え書」に、詩人の肖像をこのように記している。
写真を見ても分かるように、無表情の重吉は、実にもの哀しそうである。元来、重吉の性質は、厭世的な憂鬱気質に支配されていたのである。そして、その反動から噴火する「怒り」と、信仰者として背馳する死への憧憬。それらの反映によって、重吉に些か緊張性興奮型の躁気質が角ぐみ始めたのである。
重吉はキリストを心から賛美する数多くの詩を綴っているが、同時に、「永遠の命」に対して確信を得ていないのかと思われるような、死への憧憬を美化している詩が数編ある。
それでは次に、紙面の都合で精解を記せない故、幾つかの詩を例に挙げて、簡潔に評釈してみたい。
とうもろこしに風が鳴る/死ねよと 鳴る/死ねよとなる/死んでゆこうとおもう(『風が鳴る』)
もえなければ/かがやかない/かがやかなければ/あたりはうつくしくない/わたしが死なな
ければ/せかいはうつくしくない(『断章』)
死をおもい/死をおもいて/こころはじめておどる(『無題』)
● 真摯で敬虔なクリスチャンであった重吉であるが、常に死を肯定する思いがあった。
ぐさり! と/やって みたし/人を ころさば/こころよからん(『人を 殺さば』)
太陽をひとつふところへいれてゐたい/てのひらへのせてみたり/ころがしてみたり/腹がたったら投げつけたりしたい/まるくなって/あかくなって落ちてゆくのをみてゐたら/太陽がひとつほしくなった(『太陽』)
● 怒りは、人間の心を瞬時にして極悪な思いへと導く。けれども、平常心に戻って省察してみると、心の中に芽生えた激怒は、罪であることに誰もが気づく。けれども重吉は、猶も「こころよからん」と結んでいる。この怒りの継続と、ほくそ笑むような安堵感は、本来の重吉からは想像すら出来ない心の昂りが伺える。
●太陽がほしい一番の理由は、腹がたったら投げつけたい為である。大きな太陽を自由自在にしてまで、怒れる対象が存在することと、太陽を弄ぶ諧謔(おどけ)は、上記の心の昂りと共通しうるのである。これは明らかに、哀しみを歌いながら寂しさを継続させてゆく憂鬱気質とはまた別に、潜在意識に眠っていた躁気質の表白である。
かなしみは/しずかに/たまってくる/しみじみと/そして/なみなみと/たまりたまってくる/わたしの/かなしみは/ひそかに/だがつよく/透きとおってゆく/   /こうして/わたしは/痴人のごとく/さいげんもなく/かなしみを/たべている/いずくへとも/ゆくところもないゆえ/のこりなく/かなしみは/はらへたまってゆく(『はらへたまってゆく かなしみ』)
●重吉の「かなしみ」は、信仰によって「透きとおってゆく」のである。即ち、癒されてしまうのである。そして、この詩の注目すべき箇所は二連目にある。「痴人のごとくかなしみをたべる」、「かなしみは はらへたまってゆく」と重吉は歌っているが、哀絶のイメージよりも、むしろ「かなしみを たべる」ゆとりを暗示している。
人間、八木重吉は、キリストを深く信じるが故に、その魂は哀しみと神経の昂りに翻弄されていた。昭和二年(1927)、而して重吉は煩悶の果てに肺結核で夭折した。享年29。私は重吉の正直で純粋な心に、何よりも深く感銘を受けたのである。

2005年9月15日木曜日

第七十七回 てんらく

常日頃から、人を感動させるような詩を書きたいと思っている。けれども、そう易々と書けるものではない。心から気に入った詩は、なかなか書けないのである。一生一篇、いや、一篇だけ完璧な詩に最も近しい、未完の詩が書ければ本望である。

詩を書く場合、少し狂いだした方が、イマジネーションがわいてくる。では、どの様に狂えばよいのか、ということについては、ここへは詳しく書けない。本欄は教会のホームページの一部であるから、あまり不埒な話題は取り上げない方が賢明であるからだ。

だが・・・・ ぶっちゃけた話し、クリスチャンよ、あまりキレイごとばかりほざいていたら、らちが上がんねぇよ。この不埒な話題にこそ人々が注目して、惹きつけられるのである。そして、ぼくは裏ワザを駆使して、バッチリ読者を伝道してみせるのだ。

それは、それは、どえらい自信でんがな・・・・

曲がりなりにもぼくはクリスチャンである。主がぼくを助けてくださるのである。主とともに歩むから自信がわいてくるのだ。ぼく一人だけでは、単なる空元気に過ぎない。

それはともかく、ラッパのウラページがあったら、おもろいとおもえへん! 

かんにんやで、不逞なことばかり言うて、そんな恐い顔せんといてぇな… ほんまに、ご免やで、なぁ、なぁ、ご免やでーって。

それでは、只今より真面目に詩を書くことにしよう。現在、時刻は午前1時15時分。その前に準備体操はじめ!  

・・・・しばらく経ってから、来た、来た、来た、来た、イマジネーションがわいて来た。

ぼくが創った出来立てのホヤホヤの詩を、たまには鑑賞してください。




・ 落(てんらく)


このやろう と 叫んだら

大空から 突き落とされた

俺は暗闇で点になった

ここはまるで

天地創造の はじめの

むなしい空間のようだ



闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇・闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇奈落



俺は健康だ

俺は金持ちだ

俺は頭が良い

俺はハンサムだ



俺に出来ないことは

何一つとして無かった



ああ

暗黒では

何もかも

成すすべが無い



俺は独り漆黒の闇の中で

汚点となって這い続ける



死ぬことは許されない

毎日 地べたを舐めながら

永遠に てん てん てん てん てん

てん てん てん てん てん 



俺は謙遜に悩乱して

無限に・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・

2005年8月15日月曜日

第七十六回 細道と獺祭(だっさい)

若い時分から、ぼくの身体は硬い方であったが、最近とみに筋肉が硬直してきたように思えてならない。年齢のせいでもあるのだが、原因は言わずと知れた運動不足。毎日のストレッチと週に三回の水泳、そして歩行運動が不可欠である。けれども、ぼくは非常に意志が弱いので、不言実行も有言実行も出来ない男なのである。

先日、気まぐれにスポーツ・マートへ赴くと、ダンベルと今はやりのボディ・ボールを購入してしまった。あれよあれよと用意万端整ってしまったので、いざエクササイズのつもりでいたが、いつの間にか元の木阿弥となっているではないか。

そこでぼくは、とにもかくにも歩くことから始めてみようと思い立った。そして取り敢えず日本とヨーロッパで、文学行脚を企ててみたいと念じた。まずはフランスへ出向いて、もう一度最初から、近代詩の聖典と称せられている『悪の華』や『パリの憂鬱』など、ボードレール先生の詩や詩論と対峙しながら、フランス全土を行脚してみたいと。

この目論見が家人の耳に入りでもすれば、一喝されるに決っている。ぼくが行脚の計画を微に入り細にわたって説明しようものなら、家人は呆れ返ってしまうだろう。

「あなた、一体何を考えているのよ」

「ぼくはまだ文学修行の身であるから、エスカルゴの細道を極めたいだけだ」

家人は憮然とした面持ちで、一気にまくし立ててくる。

「いい加減にしてよ! そんなの修行でも何でもないわ、単なる道楽じゃないの、わたしが働いている間、ベビーシッターは誰がするのよ、私に子供を背たらわせて働かせるつもりなの… 」

「 …ごもっとも。しかし、行かねばならぬご家人殿、止めてくれるな…  行かねばならぬ… 」

「ちょっと、何一人で悦に入っているの」

多分このようなやりとりを、ぼくと家人の間で展開することになるであろう。

「お言葉ですがご家人殿、道楽とは、ちと、いただけませんな。せめて文学極道と言っていただきたい」

「くだらないことばっかり言っていないで、もう少し現実に目を向けてくださいな」

「いゃ、その… ぼくはただ純粋に、ボードレール先生の遺影とともに、フランス各地を巡って詩作をしながら、出来れば一緒にフランス料理の各様についても、いそしみたいと思っているだけのこと。これを名付けてエスカルゴの細道という」

「その前に、あなたが今住んでいるロサンゼルスから、フリーウェイの細道を極めなさい」

「うぬぅ、おぬし、できるな… これは恐れいった」

ともあれ、健康管理のために、早急にウォーキングは始めてみたい。先般、家族でディズニーランドへ行った際に、朝から閉園間際まで園内を歩き回った。日頃歩き慣れていないので、足が棒になった。体力が消耗しているので、さぞ血圧が上がっていることであろうと心配していたが、家に帰ってから血圧を測定してみると、何と普段よりも、血圧が上も下も20ほど低くなっていた。そしてその数値は、三日間つづいた。いかに歩くことが身体に良いことか、ぼくは身を持って体験したのである。

そんな矢先に、会社の顧問弁護士から電話が掛かってきた。再婚したという知らせである。正確には再々婚である。紹介したいので食事でもどうだと誘われた。結局は飲み会となったが、再婚した女性は、大阪府吹田市垂水町に住んでいたというから驚いた。この住所は渡米前にぼくが住んでいた実家の住所と同じであるからだ。

「あそこの餃子美味しいのよね」。「駅前の○○耳鼻科の先生は変コツだけど、腕はぴか一だったわ」。ぼくは彼女と意気投合した。場が盛り上がった所で、山口の地酒『獺祭』(だっさい)が振舞われた。酒をグラスに注ぎながら、ウェイトレスが『獺祭』の講釈を垂れた。     「『獺』は一字でカワウソと読みます。だっさいとは、正岡子規の俳句に由来します」

ぼくは講釈の続きを垂れてしまった。

「俗に、詩文を作るときに、多くの参考書や辞書をひろげちらかすことを獺祭(だっさい)という。また、子規の命日を獺祭忌といい、正岡子規はその居を獺際書屋と号した」

「随分、お詳しいですね」

そう言いながら、お株を奪われたウェイトレスは、その場を繕うと、ぼくの顔を一瞥(いちべつ)した。ぼくは黙っていた。間もなく正岡子規先生の命日(9月19日)である。

家に戻って郵便受けを確かめると、星野富弘美術館(LA)を囲む会から、会報が届いていた。その一面の集合写真を見ていたら、たちまちに一句閃いた。

囲む会 とりどりの愛 七変化    
*七変化とは紫陽花のこと