2002年9月4日水曜日

第五回 フライド・チキン

ロサンゼルスの無料情報誌に、お薦めのソウル・フードのレストランが紹介されている記事を読んで、ぼくは大層ぶったまげてしまった。

その店はサンタモニカ・フリーウェイからクレンショーを南下して、ジェファーソンとの交差点にある。かつては日系人の住居が集中していたエリアだ。

どうして仰天したかというと、そのレストランの料理の味、サービス、価格、雰囲気、衛生観念が、ぼくの知る限りにおいて最悪であったからである。

そこはファースト・ソウル・フードの老舗有名店である。ほとんど客がいないのに、フライド・チキンのセット・メニューを注文してから出来上がるまで、45分も待たされた。料金はフライド・チキンのチェーン店と比べると3倍も高い。これで味がよろしければ納得もいくが、フライド・チキンの衣は、イカの塩辛が裸足で逃げ出してしまうほど塩辛い。おまけに店員の女の子は仏頂面で、接客が横柄であることこの上ない。

ぼくの推測であるが、先代の時代から、幾つもある近隣のブラック・ゴスペル教会とつながっていて、ケータリングやテイクアウトが大量に出るのだろう。店頭での小売は惰性になっている。

黒人霊歌は魂の叫びだ。今、日本ではブラック・ゴスペルが盛んである。言葉が通じなくとも、魂と魂は互いに通じ合うものだ。クレンショーのソウル・フード店も、謙虚なプライドを輝かせてほしいと思った。怠慢と真実(ソウル)は反比例するものである。

クレンショー地区の東側にはコリアンタウンが広がっている。自動車に乗って知己と二人でコリアンタウンを走っていた時、
「ランチはソウル・フードでも食べようか」
とぼくが言ったら
「きょうは腹の調子が良くないので、キムチはパスするよ」

十年程前に、ベイFM(神奈川)の番組に出演した際、LAのお薦め(変わり種)レストランを紹介したことがある。その一つにソウル・フードの『Roscoe's』があった。LA界隈に数店舗が拡散している。ワッフルと揚げたてのフライド・チキンが売り物。(揚げたては少し時間が掛かる)

揚げたては何でも美味しいのだが、数年前にモントレーパークにあるケンタッキー・フライドチキンで、新鮮な油に入れ替えたばかりの、揚げたてのフライド・チキンを食べたことがある。前もって時間が掛かる旨、店員さんに釘を刺されていたが、かつて味わったことの無い瑞々しさと滋味豊かな鶏肉の風味が、程よい舌触りの衣とスパイスの香りとハモっていた。これぞフライド・チキンと唸らせる醍醐味溢れる味覚のパッションが、足早に口腔に広がると、食道にほやほやとした肉汁の旨味がしたたり落ちていった。その瞬間、ぼくはフライド・チキンという喰いものに、初めて魅了されたのだ。

愛鳥週間が始まって、野鳥保護のためのボランティアに参加していた人たちが、帰りがけに赤提灯の前で立ち止まって言った。
「どう、焼き鳥でいっぱい」
新聞の四コマ漫画だが、矛盾したブラック・ユーモアに溢れている。
「野鳥を愛しているといいながら、今晩、あなたは鳥を焼いて食べるであろう」
とは、誰もが想像していなかった筈である。

イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏(にわとり)が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。ペテロは言った。「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。(マタイ:26・24)

このペテロのイエス否認は、74節以降に書かれているように、イエスの予言どおりとなった。イエスの側近にいて誠実につき従っていたペテロであったが、イエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

総てを捨てて従う信仰は、ぼくには未だ遠くて手が届かないが、心から真剣に祈ってみたい。

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