2002年9月16日月曜日

第六回 サービス

子供の頃、家族揃ってホテルへ食事をしに行った際に、案内係の男性が「セルフサービスです」という聞き慣れない言葉を発した。ぼくはテーブルに案内されてから、これからどのようなサービスを受けるのだろうかと、胸をわくわくさせながら待っていたことがある。

アメリカは周知のようにセルフサービスが徹底している。この傾向は消費者にとっても経済的で大変至便なことである。しかしこのサービスは人件費が高騰するアメリカに於いての、資本家たちが仕掛けたコスト削減対策の一つでもある。

81年の暮れに、ぼくは往時常宿にしていたダウンタウン(LA)の場末にある安ホテルから、ヒルトンホテルの一階にあった日本食のレストランを目指して、歩き続けたことがある。ぼくはそのレストランでビールか酒をたしなんだので、一緒にオーダーした定食に付いている味噌汁だけを、後からサーブしてくれるようにと和服姿のウエイトレスにお願いした。すると彼女は不服そうに顔を曇らせて、ぼくに向かって何やら小言を言い始めた。結局、味噌汁は定食と同時にサーブされた。まだアメリカのレストランに不慣れなぼくは、マナー違反でも仕出かしたのではないかと思い、随分気をもみながら食事をしたことである。

先ほどのウエイトレスが勘定書きを持ってきたので、ぼくは料金にチップが含まれているかどうか、前もって伺ってみることにした。すると彼女は逡巡としながらも、「含まれているといえば含まれていますが、含まれていないといえば含まれていません」
チップに不慣れなぼくは、いきなりおざなりな答えが返って来たので辟易した。

明細書をよく確かめてみると、15%のチップを含んだ代金が合計額として一番下に記入されてあった。ぼくはあきれ返ってしまった。先ほどのウエイトレスはあわよくばチップを二重取りするつもりでいたのだ。やれやれ、一流ホテルのレストランにしてこの始末である。狡猾なウエイトレスはぼくの向かいのテーブルで、アメリカ人の客を相手に談笑している。まったくいい気なものである。こういう場合アメリカでは、ペニーを三枚テーブルの上に置いて立ち去るそうである。二度と来るものか、と言う抗議の印だそうだ。

ぼくはそういうことはしないで、請求された金額の分だけをテーブルの上に置いて席を立った。ウエイトレスと目が合ったが、彼女は挨拶の一言もぼくに掛けなかった。少し寂しい思いをしたが、むしろぼくは、そのウエイトレスの貧相な性根が憫れでならなかった。

一昨年の早春に、パリの東駅近くにあったブラッスリーで夕食をした折、ぼくはその店のギャルソン(ウエイター)のサービスに舌を巻いた事がある。彼は案内係を兼ねた中肉中背の六十輩のヘッドウエイターである。所作が機敏な上に、広いダイニング・ルームを縦横無尽に動き回る。それでいて目障りではない。ぼくは独りで食事をしながら、彼のことをずっと観察していたのである。

先ず彼の気の配り方だが、常にダイニング・ルーム全体を見渡しながら、厨房へ何度も足を運び、各ギャルソンとの連携を密に仕事を進めて行く。彼の表情は終始にこやかで物腰が柔らかい、相手が客であれ身内であれ、その表情に全く隔たりが無い。彼にテーブルまで案内されると、ムニュ(定食)の説明をしてくれるが、希望とあらばワインの講釈から機知に富んだ小噺まで、顧客の心を何処までも捉えて離さない。案内されたカップルや家族づれの表情を見ていると、ほっとした満悦の面持ちに、彼らの心ばえがはっきりと現われている。

このギャルソン氏の如才のなさには敬服させられるのだが、彼の積極的な挙措や話し振りに一つも違和感を覚えないのは、熟練された謙譲の美徳と品性が基となっているからであろう。ぼくは朝な夕なに、このブラッスリーへ何度も足を運んだが、味つけや価格のこと以上にサービスの肝要さについて学んだのであった。

そこでぼくは考えた。御言葉を伝えることも大切であるが、御言葉を日々実践できるクリスチャンになることが、何よりも枢要であるのではないか。周囲の者の心を自然と捉えることによって、理屈がまかり通らない爽やかな伝道がスタートするからだ。

誰でも神様からタレントを授かっているからには、イエス・キリストの御名によって、自分の賜物に対して真剣に磨きを掛けようとするならば、何事でもやり遂げられると聖書は約束している。

また、英語で礼拝のことをサービスというが、福音は私たちにとって掛け替えの無い、神様からの無償のサービスなのである。従ってあなたも、このサービスを受けない手はないのである。

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