毎年二月頃になると、心身ともに変調を兆す厄介な季節病が、ぼくをぶりぶりと蝕み始めるのである。ここは一つ、気散じに旅行にでも出掛けてみたいと思うのであるが、わが家の家計を見るには及ばず、そのような経済的余裕は微塵もないのだ。
そうかといって、このままの状態でいれば精神衛生上極めてよろしくない。昨年の二月には何もかも放棄して、家人にも一言も相談せずに、子育てもそっちのけにして一人でパリへ旅たった。
よって、今年も欧州へ赴きたいと考えているのであるが、悲しいかな無い袖は振れないのだ。ぼくは曇った冬天を仰ぐと、トホホホホ・・・ 大きなため息を一つ吐いた。
ぼくの唯一の贅沢であり、また、憂さ晴らしとなるのは、月に二回、鮨を摘まみに一人で出掛けることぐらいである。ひいきにしている鮨屋はLA郊外のモントレーパークにあって、オーナーの龍さんこと中村龍一さんとは二十二年来の友人である。
ひいきといっても、可愛がって貰っているのはこのぼくの方である。最近はそうでもないのだが、たらふく飲んで喰って、おまけに「ハニーへお土産持っていきな」と気風の良いこと、帰り際にはテイクアウトまで用意してくれる。飛び切りのネタばかりが次から次へと出てくるので、通常の会計であれば優に200ドルは下らない。けれども龍さんは、ぼくがどれだけ飲み喰いに興じても、会計は毎回判子で押したように45ドルである。
このような訳で、時たまウエイトレスの衆から、勘定書きを隣のお客さんに見せないようにしてくださいと釘をさされるくらいだ。
最近になって、もう一つ贅沢をした。約五年振りにサウナへ行ってマッサージを受けたのである。韓国系のサウナであったので、マッサージ師もやはり韓国の女性であった。
そこでぼくは大層感動したのである。この四十代半ばとお見受けするマッサージ師さんは、ぼくが今までに体験したマッサージ師の中で、一等マッサージ(指圧)が上手であった。疲れが溜まっていたせいか、身も心もとろりとして、指圧が終わってから一時間ばかり眠ってしまった。
実は今月(二月)に入って、家人が緊急の仕事で家を空けていることが多い。夜勤も続け様にあるので、コミュニケーションには最近契約したセルラーホーンをもっぱら利用している。ぼくは携帯電話を持たない主義を通してきたが、この度は家人との連絡に必要なために携帯を所持することに決めた。但し、ほかの者には電話番号を教えないように心がけている。
家人は看護師とケアギバーを兼ねた仕事をしている。クライアントの中にはどうしても家人でないと駄目だという患者さんが何人かいるようである。現在彼女が担当している患者さんの一人は、精神分裂病の老婦人。毎日渋滞するフリーウエイを運転しながら、病院や患者さんの自宅を訪問して諸事をこなす。
家人曰く、「この仕事を続けているとありとあらゆる人間模様に遭遇する」。心身のケアだけではない、じっくりと話を聴いてあげて、相手のことを親身になって考えてあげることが大切だと言う。
ならば、ぼくの心のケアもお願いしたい所であるが、紺屋の白袴なのか、それとも既に匙(さじ)を投げられたのか、一向に構っていただけない。
この道三十五年の自称「うつ病のプロ」または「うつ病の魁」としてのぼくは、病気をある程度自分でコントロールすることが出来る。いわんや抑うつに慣れるコツをおさえているのだ。抗うつ剤を服用することや、病院に駆け込むことも稀にあるが、発狂したらとにかく眠ることにしている。そして暗闇の絶望の中にパラダイスを垣間見て、にんまりとほくそ笑むのである。
今や「うつ病」は日常茶飯事であるが、三十年前はうつ病はおろか、神経症にも世間は理解を示さなかった。朝、起きることが出来なかったら、怠け者か、学校をさぼるつもりでいるとしか周囲の大人は考えてくれない。往時は本当に気が狂うほど落ち込んでしまったのだ。
最後に娘のことを書く。夜、寝室のバスルームで咳き込んだ際に、傍らにいた二歳半の娘が、「咳をしても一人」と口走った。尾崎放哉の自由律の句である。
娘が最初に暗誦した俳句は「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)。遊び半分で始めたつもりだったが、三つ子の魂は水を吸い取るスポンジの勢いで、次から次へと俳句を吾がものにしていく。
2月22日、聖日の朝、今日も外は雨。ぼくの身体はまるで鉄の塊を背負っているみたいに重苦しい。そして微動たりともしない。急に息苦しくなって胃液を嘔吐した。一瞬、恐怖と焦燥が綯い交ぜになってぼくの全身を駆け抜けた。
何も聞こえない 何もかもが見えなくなってしまった けれども 路傍の石の中にも 主が共にいてくれた 魔界であろうとも 主はぼくをとらえて離さない ああ この厳つい憂鬱を知らなければ ぼくは今ごろ 小さな喜びの上で あぐらをかいているだろう |
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