睡眠薬を飲んで死のうと思ったことがある。十六歳の初夏であった。睡眠薬と精神安定剤を多量に服用すれば、死ねると思っていたからだ。
往時、ぼくは学校にもろくに通わずに、病院の神経科に通院していた。日頃から自殺願望が強かったので、病院で貰った薬を少しずつ溜め込んでいたのである。
やがてその時が来たと思った。ぼくは机の引出しの奥に隠してあった睡眠薬と精神安定剤を、ありったけ飲んだ。気がつくと病院の観察室にあるベッドの上で眠っていた。意識は朦朧としていて、唇がやけに乾燥していた。
自殺は未遂に終わった。ぼくの認識不足のために、手許にあった薬の分量だけでは、死にきれなかったのである。
ぼくには過去に二度、服毒による自殺未遂の経緯がある。二度目は二十五歳の秋、夜明け前に実行した。この時ばかりは四日四晩、昏睡状態に陥った。三途の川を渡りかけていたのである。意識が少し甦ってからは、副作用のために、幻聴と幻覚に二週間ほど悩まされた。発見されるのが後二十分遅れていたら、「君は死んでいた」と医者は言った。
それから約一年後に、ぼくは単身渡米した。まさかアメリカの地でイエス・キリストと出会い、教会で洗礼を受けてクリスチャンになるとは、夢にも思わなかった。ぼくは心奥から悔い改めて、ぼくの罪を贖って浄めてくださったキリストを、救い主として受け入れたのである。
一度目の自殺未遂の後で、精神科の主治医が、ぼくにフランクルの『夜と霧』(みすず書房)の本を、「読みなさい」といって貸してくれた。当時のぼくには少し難解であったが、それ以来、『夜と霧』は座右の著の一つとなっている。
著者のヴィクトル・E・フランクルは、ユダヤ系の精神分析医である。ナチス・ドイツのオーストリア併合によって、彼と両親、そして妻と二人の子供ともどもアウシュヴィッツに強制収容される。そして彼以外の家族はすべてガス室で殺戮されてしまった。
収容された最初の夜に、フランクルはいかなる状況に陥ろうとも、自殺しないことを自分に誓っている。飢えで死んでしまうか、あす自分もガス室に送られるかもしれないという極限状況のなかで、一人の囚人が夕映えの美しさをみんなに告げる場面がある。
収容所の仲間たちはよろよろ、ふらふらと立ち上がって戸外へ出る。一同が、この上なく美しい夕焼けに息を呑む。しばらくの間、緘黙(かんもく)がつづいた。その静寂を破って誰かが、「世界って、なんて美しいんだ」と、誰になく語りかける光景が、読者の胸に、ひときわ熱い感慨をひたといざなう。
フランクルは述べている。ナチスが悪で、我々が善であると言い切れないと、「従って一方が天使で、一方が悪魔であると説明するようなことはできないのである」
クリスチャン詩人である八木重吉の詩に、『うつくしいもの』というのがある。純一で感受性の鋭い重吉は、ひたすら美しいものを追求していた。重吉は「ほんとうに美しいもの」をあさりながら、それが敵であってもかまわないと道破している。即ち、なりふりかまわずに究極の美を模索しながらも、味方にも、敵にも、そしていかなる万人の上に、美を認めている。そして醜さをも認めているのだと思う。
聖書は語っている。
「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」
と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ8・36~39)
まさしく圧倒的、勝利者である。キリストと共に歩むのであれば、死は終わりではない。「天涯の門」となるのである。
ここで喚起させられることは、同じくローマ書の第7章、14節から25に記述されているパウロの自我の苦悩である。パウロは善である能力とそれを行い得ない能力の無さを知っている。また、何が悪であるかを承認する能力と、その行いを自制することのできない知恵の無さと、意志の弱さに悩まされる。即ち、二重性の苦悩である。
「わたしはより良きものを知っている。そしてわたしはそれを是認する。けれどもわたしは、より悪しきものを追求している」。これはローマの詩人、オヴィディウスの名言であるが、パウロの煩悶と非常に類似している。
自殺者は生きることに対して、一抹の希望を見出そうとしている。けれども、どうしようもない絶望感に金縛りになってしまう。
だが、本当に知っていただきたい。死にたいと思う悪魔の囁きなどに、決して負けてはならない。神の声は真実である。
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(2コリント・12・7~10)
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