この拙稿を書いている6月19日は『桜桃忌』。太宰治(1909~48)の忌日である。
山崎富栄と共に玉川上水に入水自殺した太宰は、溺死した客月に短編小説『桜桃』を『世界』に発表している。太宰はこの創作の本文に入る前に、詩篇から、第121篇の冒頭にあたる「われ、山にむかひて、目を拳ぐ」を副題として引用している。太宰の作品には聖書からの引例や、キリスト教についての言及が夥しい。 とりわけ『斜陽』には、聖書の御言葉が一方ならず引用されている。英訳を手掛けたドナルド・キーンさんは、翻訳をする際に省略の必要性を強く感じたと述べている。
また、ドナルド・キーン著の『日本の作家』(中公文庫)に於いては、実に興味深い事柄が論じられていた。「キリスト教は一種の謎めいた要素であって、(太宰にとって)重要なものではない」と断言しているのである。太宰治の研究者の中にも、同等の見解を示す者がいることも事実である。
キリスト教は太宰の好奇心を煽り立てる唯一の啓蒙であり、聖書の中で太宰自身の知的情緒と共鳴する聖句を発見しただけに過ぎなかった。信仰の面では教会には属さず、聖書を自己流で学び、受洗をしない信仰的救済のない、反キリスト者としてみなされていた。
私はキリスト教が太宰にとって、一種の謎めいた要素であって、重要なテーマではなかったと確言しているドナルド・キーンさんの考察に、二十年近くも前から異論を唱えてきたのである。考えてみれば日本文学の碩学を前にして、真に僭越な発言をして来たものである。
元来、大局的な判断を下せる有識者は、文献など資料の解析に時間を割いて、こと細かに繙(ひもと)いていくのだが、『斜陽』、『人間失格』、『お伽草子』、『走れメロス』、『駆込み訴え』等、ここに挙げたのはその一部でしかないが、ドナルド・キーンさんは創作にだけ重点を絞って、思索を深く巡らしながら切り込んでいく手法を採られている。 従って、随筆、書簡、証言、病歴、心理分析等へのアプローチが、希薄となっていることは自明の理である。
例えば、深江絹代のエッセイ『太宰治と聖書』には、「太宰は聖書を知識としてのみ読んでいたのではない」、「聖書と太宰文学との関連を無視したなら、太宰文学の理解は不可能だ」とまで喝破している。
また太宰は、内村鑑三の信仰の書にまいってしまい、これは自然と同じくらい恐ろしい本で、私は信仰の世界に足を一歩踏み入れているようだ。と『碧眼托鉢』に書いている。『風の便り』においては、自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他にどんな書物も読めなくなると言い。聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光ってくるから不思議です。と述べている。
太宰が生涯質素な家に住んでいたのも、プロレタリア意識などではなく、キリストの汝等己を愛する如く隣人を愛せよ、という言葉を妙に頑固に思い込んでしまっていたからである。
太宰文学が提示する「道化」、「偽自己」、「奉仕の精神」、そしてそれらの根底に流れる冷酷さと、自己中心的で自尊心が強い繊細脆弱な自我。特異な生い立ちと合い絡まって、「選ばれた人」として育ち、虚構の名人にして真正面から対峙することになったのは、当初、知識として読み始めた聖書であった。
「人間には、はじめから理想なんて、ないんだ。あってもそれは、日常生活に即した理想だ。生活を離れた理想は、ーーああ、それは、十字架へ行く路なんだ。そうして、それは神の子の路である」(『正義と微笑』)
病跡学の観点からしても、「選ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」(『葉』)。「この軽妙で不遜な言葉を口にすることのできた太宰は、この一語をもってしても、病跡学の渦中の人としての資格が十分にある」。とパトグラフィーの権威である梶谷哲男(精神科医)さんに言わしめた。
この一句は、太宰とキリスト教の関わりを探るにあたって、確かに貴重なキーワードの一つだと言える。だが、この一語は残念なことに太宰の言葉ではなく、ヴェルレーヌからの借用であったことが判明してしまった。また、梶谷哲男さんは、この短文を一括して不遜な言葉であると解しておられるが、換言すれば、これはヴェルレーヌが宿罪を謳った語句なのである。
紙面が尽きたので結びになるが、神の裁きを畏怖していた太宰は、芥川龍之介と同様に自我の苦悶から解放されることなくして、自ら人生の黄昏を早めて朽ちてしまった。
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