2002年7月21日日曜日

宮沢賢冶

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、日本人であれば誰でもが知っている詩の一つである。
先ずはじっくりと、この詩を鑑賞して頂きたい。




雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカ二ワラッテヰル
一日二玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱(カヤ)ブキノ小屋二ヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


詩の解説は出来るだけ作者の真意に精通したものでなくてはならない。いかにも客観的な考察を打ち出すかのように見せかけておいて、小難しく分析された評釈は実際には非常に独善的であったり、的を外れていたりする場合が許多である。

『雨ニモマケズ』には賢治が理想としていた人間像が描かれている。あやふやに詩を暗誦している者には、賢治が豪雨や強風に負けない丈夫な体の持ち主で、日頃の生活は質素で大変慈悲深い人物であると思い込んでいる向きがある。

この詩の最後を読むと通じるように、賢治は「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」。このように結んでいる。即ち、この詩には賢治が理想としていたモデルとなった人物がいたのだ。その人の名前は斎藤宗一郎と言い、賢治の周辺にいた敬虔なクリスチャンであった。生憎私の手許には斎藤宗一郎に纏わる、或いは手掛かりとなる文献が一切見当たらないので、賢治と宗一郎との繋がりが詳らかでない。

学校の教科書では『雨ニモマケズ』を詩として学んでいるが、果たして賢治が詩という体裁の意識下で綴っていたかどうかは知る由もない。もともとは賢治の手帳に11月3日と最初に記されてあり、走り書きされてあった文章があまりにも詩的で、賢治の心情や理念までもが書き散りばめられてあったので、最初の一行である『雨ニモマケズ』を仮のタイトルとしているうちに、やがては完全なる『詩』として親しまれるようになった。

それから宮沢賢治の詩集の解説に『雨ニモマケズ』は、この理想主義の敗北が詩人にもたらした結果である、と論じられているのを読んで私は大層当惑してしまった。なぜならば、詩人宮沢賢治は既に勝利者であり、人間宮沢賢治は勝利者への道を、この時点に於いて凝視しているからである。

最後に、賢治がイーハトーヴ童話集と呼んでいた『注文の多い料理店』の付録に記されている桃源郷、岩手の里(イーハトーヴ)の情景描写をここに紹介したい。

「そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雪の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている」。

まるで旧約聖書の『雅歌』を始めとする「詩書」を、彷彿とさせる麗文である。

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