2004年3月1日月曜日

第四十一回 手を見たまえ


昨年の今ごろ、世界はSARS(重症急性呼吸器症候群)の猛威に震撼していたが、今年は、鳥インフルエンザの発生が日本列島を直撃している。

ぼくは生卵を温かいご飯と混ぜて食べるのが好きなのだが、巷ではレジオネラ菌だの、サルモレラ菌だのと、消費者に対して警鐘を乱打するので、近頃では生卵は食べなくなってしまった。

日本の卵は実にうまい。インフレの真っ只中にあった時分から、日本の卵はアメリカの卵よりも安くて美味であった。

先般、知り合いの保健婦さんが、保険所で実施した実験の結果を報告してくれた。その実験とは、大便の後にトイレット・ペーパーを10枚重ねて拭き取った直後に、掌を顕微鏡で調べてみると、大腸菌はトイレット・ペーパーを通り抜けて、掌に付着しているというのだ。

細君を含めて、たまたま近くにいた日本の女性三人に聞いてみた。日本の国で公衆便所に入ると、99パーセントの女性はトイレから出て来た後で必ず手を洗う。だが、ここアメリカでは、彼女たちの観察眼によると、劇場やショッピング・センターなどのトイレで、手を洗う女性は全体の約半数ぐらいであるというのだ。

友人から面白い話を聞かされた。空港のメンズ・ルームで、用を足して手を洗っている際に、後から来た白人の男性が隣で手を洗いながら、
「あなたのは、綺麗じゃないのですか?」
 その男は、神妙な面持ちで語りかけてきた。

その男曰く、「自分の一物は常に清潔にしているので、先ず、汚れている手を洗ってから用を足す」(従って、最後に手は洗わない)

味噌糞とは味噌も糞も区別しないという意味だが、もし、犬や猫の餌を入れる容器に、ご飯を盛られて、さあ、お食べなさいと勧められたら、大概の者は憤慨するだろう。 

いくら綺麗に洗って、消毒をしていると説明をしても、受け付けてもらえないだろう。では、板前さんの手はどうだろう。お尻を拭き、鼻の穴をほじくる同じ手で、鮨を握ってくれる。もちろん調理をする前には、綺麗に手を洗っているだろうが、消毒まではしていないだろう。

それではペットの餌を入れる容器を、綺麗に洗浄して消毒したものと、板前さんの手とを比較するとどちらが清潔か。言うまでもないことだが、板前さんがトイレへ行って、用を済ませてから手を綺麗に洗うが、その後で洗面台の蛇口をひねったり、トイレのドアのノブを手でつかんだら、掌には大腸菌が付着してしまう。

生ものを扱う職人さんは石鹸で綺麗に手を洗った後で、消毒液に暫く手をつけて、なおかつ、厨房に戻ってから、もう一度手を洗う配慮が必要だ。

まあ、ここまで神経質にならなくとも、食中毒の心配は無用だが、ぼくが言いたいことは、アメリカの鮨バーあたりで、一丁前の顔をして鮨を握っている青年たちの、衛生観念が、まったくなっていないことに憤慨しているのだ。

彼らを取り締まる保健当局も、マニアル通りの査定しか出来ないのだから困ったものだ。そしてレストランを利用する顧客は、入り口に掲げられてあるABCの札を基準にして、その店の衛生観念を判断をするしかないのである。

かなり前のマクドナルドの宣伝文句に、マクドナルドではハンバーガーを作る工程において、人間の手は一切食品には触れていません。というのがあったが、従業員はビニールの手袋をはめて作業をしているのである。

これほどまでにアメリカの企業は食材の管理と、衛生観念を徹底的に追求して、消費者にピーアールしようとしていた。

ところが時代は変わってしまった。鮨を食べることがステータスの一つとなったアメリカでは、黄色人種が素手で握る生の魚と酢飯を、誰もが競い合って食べるようになった。

正に、アメリカに「日本のバブル弾けて、鮨バーあり」だ。

さて、目は口ほどにものを言うと言われているが、果たして人間の手はどうだろう。

手を見たまえ。手が約束し、魅惑し、訴え、脅かし、祈り、哀願し、拒絶し、招き、審問し、賞賛し、告白し、媚び、教え、命令し、嘲り、その他もろもろのことを行うさまを。舌をうらやましがせる。その無限の変化を。(ウォルター・ソーレル『人間の手の物語』筑摩書房より)

0 件のコメント:

コメントを投稿