2004年3月15日月曜日

第四十二回 道

16年程前に、初めて九州の地を踏んだ。知人がいる鹿児島まで赴いたのである。伊丹空港から鹿児島まで飛行機で一時間半の旅であったが、今更ながら、改めて早いものだと痛感してしまった。

ぼくは中学生の時分から、大の鉄道ファンであった。毎月、鉄道弘済会が発行している大きな時刻表を買い求めて、夜毎ベッドの上で、明け方近くになるまで時刻表をめくりながら、日本全国を空想の鉄道旅行で満喫していた。

特にあこがれた列車は、東京を夕刻に出発して、大阪には午前0時から夜明け前に到着する、「さくら」を始めとする「はやぶさ」や「つばめ」等である。いわゆるブルートレインのことであるが、確かこのような愛称であったと記憶している。これらの長距離夜行列車には、食堂車と個室の寝台車が連結されていた。

東京から終着駅の西鹿児島駅までの所要時間は、18時間程度であったと思う。当時のぼくは、のべつ時刻表の頁をめくりながら車窓からの景観を想像していた。やがて、夜中にひだるくなってくると、駅弁の図鑑を本棚から引き抜いて、ああでもない、こうでもないと独りで呟きながら、沿線の郷土色豊かな駅弁のおもむきを味わった。

ぼくにとって西鹿児島は遠い地方であった。と同時に夢みる在所でもあったのだ。このような情趣がぼくの脳裏の片隅に宿っていたので、飛行機で速やかに鹿児島へ到着した際には、無味乾燥とした風塵がぼくを包み込んだ。

往時、鹿児島の空港には知人が出迎えてくれた。一週間ほどの滞在期間中に、ぼくは半日だけ独りで鹿児島の街を散策した。目当てはJR西鹿児島駅へ出向いて、駅弁を購入することであった。

意気に燃えてホテルを出たぼくであったが、道すがら、飛行機を利用しておきながら駅弁だけを購入するという、鉄道ファンの風上にも置けない自らの行動に、大層しらけてしまったのである。

昼食は駅弁を食べるつもりにしていたが、ぼくは取り敢えず、西鹿児島駅の正面にある小さな喫茶店に入ることにした。

この店は何の変哲もない普通の喫茶店であつたが、店の入り口付近に置かれてある週刊誌とは別に、奥の棚には同人誌が数冊、造作無く積まれてあった。

ぼくは同人誌を手にとって、次から次へと目を配った。ぼくはどの同人誌にも小説を発表している一人の女性の名前に記憶があった。

喫茶店には経営者と思わしき六十輩のママと、ぼくの二人だけである。
「この喫茶店は同人の方たちの溜まり場なのですか? ぼくは小説を書いている〇〇さんの名前は存じ上げています」
奥のテーブルから、少し大きな声でそう告げると、一刻、ママは怪訝な顔を見せた。そして相好を崩して言った。
「じつは、わたしが書いているんです」

ぼくが『関西文学』の編集委員だった頃に、同じ名前で小説を書き、投稿してくる女性がいた。同じく、同人雑誌評で彼女の書いた小説を取り上げたこともあった。

ぼくは奥の席を立ち上がって移動すると、ママが立っているカウンター前の椅子へ腰掛けた。それから文学の話に花が咲いたが、今振り返ってみると、一体どのような内容について語りあかしたのか、皆目見当がつかない。

先ごろ九州新幹線が開業した。東海道新幹線が開通してから丁度40年目にあたる。それに伴い、西鹿児島駅の駅名が鹿児島中央駅に改められた。ぼくはテレビのニュースを見ながら、最高速度、時速260Kmで人を運ぶ九州新幹線に、早く乗ってみたいと思いが馳せた。

随分と古い話になるが、マザーテレサが来日して新幹線に乗車した際に、洗面室の紙コップを使用した後で、幾つも大事そうにビニール袋に入れて持ち帰った。御付きの日本人が、使い捨てである旨を説明したら、豊かな国では簡単に捨てられるでしょうが、わたしたちが携わっている諸国では捨てるわけには参りません。と微笑んだ逸話がある。

「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(1コリント12:9)

豊かな文明社会で生まれて育ってきたもかかわらず、不平不満が絶えな人々の心にも、飢餓や戦争が絶えない、どん底の生活に脅えている人々の魂にも、聖書の同じ御言葉が与えられる。

永遠の命とは、地上で長く生きながらえたとか、裕福かつ健康であり、世間で名声を得ることとは全く無関係だ。神様は真実をもたらしてくれるお方である。従って、あらゆる人々に、有意義な道(真理)が与えられていると、ぼくは信じている。






ぼくに与えられた道は
ぼくだけにしか歩めない特別な道だ
時には迷い つまずき 悩んで 号泣するだろう
道は険しく果てしないが 
道には神の宝が瞬いている
道よ
ああ ぼくの道
きょうも 祈り 歌いながら
行路に灯が点る

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