2005年1月1日土曜日

心の状態

「文明は蒸気にあらず、電気にあらず、憲法にあらず、科学にあらず、哲学にあらず、文学にあらず、演劇にあらず、美術にあらず、人の心の状態なり」
 内村鑑三は自著の所感集で、このように述べている。
人の心は行いによって表れるものであるが、かつて、日本人の諸外国での印象は、勤勉で正直な人々であった。アメリカの日系人は、試練に屈しないで、竹のように粘り強いことから、バンブー・ピープルと呼ばれて称賛された。
 けれども、戦後20年ほど経ってから、日本の若者たちは勤勉に欠けて、自由とわがままを履き違えてしまった。
 無論、若い人たちだけの責任ではない。裕福な暮らしに慣れてくると、今度は今までに抑制されていた、精神面での不満や不信などの感情が、日常生活において顕著になるからだ。
 海外で生活をしていると、日系のスーパーや、劇場を訪れることが度々ある。これらを利用する度に、いつも目に余ることがある。それは、スーパーや劇場で働いている日系子女の、接客態度の悪さである。
 多分、日本の場合であれば、例外はあるにせよ、たとえひと時のアルバイト要員であったとしても、それなりに訓練されてから、それぞれの持ち場に配属されるだろう。
 或る日系の劇場などは、いつ訪れても、そこで働いている日系子女の、だらしのない態度に辟易させられる。傍で見ていて、同じ日本人として誠に恥ずかしい限りである。
 この劇場では、何年か前に日本の映画が上映されたことがあった。日本からやって来た映画監督が、劇場のスタッフである日系人青年たちの態度を見かねて、激怒したというエピソードがある。
 私は同じくユダヤ系の病院や劇場、そしてレストランへ希に行くことがある。訪れる度に感心させられることは、そこで働いているユダヤ系の青年たちの立居振舞いである。
 まず、第一に、礼儀が正しいこと。そして親切である。彼らは何かにつけて一生懸命だ。このような態度で接してこられると、誰もが利発に見えてくる。
 子供の教育や仕付けというものは、とどのつまりは、両親に任せられているのである。
 ここで重要なことは、子供は神様から委ねられた大切な宝物であるということである。従って自分の子供だからといって、余にも猫かわいがりし過ぎると、とんでもないことに陥ってしまう。
 仕付けは、身が美しいと書いても「躾」(しつけ)と読む。それ故、子育てというものは、主の栄光を表すような手順で、日々、祈りをもって始めたい。
 また、巷では、学力の低下が叫ばれて久しいが、先般、日本人の高校一年生の学力が、世界のトップレベルから、ついに脱落してしまったと新聞が報じていた。
 今後懸念されることは、文章であれ図形であれ、見極める力というか、読解力に乏しいことが指摘されている。
 近頃の子供は、息の長い文章が苦手である。この現象は、恐らく劇画の影響を受けているものと思われる。日本の地下鉄に乗ると、小学生からサラリーマンまで、劇画を夢中になって読んでいる姿が目に付く。
 新聞やエッセイを読んでみても、随分とセンテンスが短くなってきている。言葉や文体は時代と共に変化するものであるから、何ら不思議なことはない。
最近、つと思うことがある。日本の一流出版社が発行している絵本や童話を見ていると、物語の原文を勝手に改ざんしている本がやたらと目につく。
 邦訳された絵本や童話に至っては、あまりにも御座なりな翻訳に、閉口するばかりである。
 版元は営利第一主義を追求するばかりに、本分を全う出来ないでいるばかりか、本来の意図であるべき夢や希望、そして愛と勇気といった美しい言葉の表現が、毀損(きそん)されてしまっている。
 戦後、日本の高度経済成長は、目に見張るものがあった。けれども、先の出版社と同じくして、物質的な豊かさだけを夢みて、経済の発展に貢献してきた代償が、現代人の心の状態として色濃く反映している。
 悪魔の挑戦は果てしないが、いかなる場合においても、神の武具で身を固めて、岩の上に信仰を築こうではありませんか。私たちは主イエスキリストの御名によって、常に勝利者なのであるから。

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