2005年3月14日月曜日

瞬きの詩人

私が水野源三さんの詩と出会ったのは、二十年ほど前である。以来、愛読させていただいているのだが、源三さんの詩はまるでスルメのように、読めば読むほど味わい深いのである。
 もう少し潤色してみると、釣りは鮒に始まり鮒で終わるといわれているように、源三さんの平易な詩は、誰にでも理解されやすいが、その真髄はなかなか奥が深いのである。
 源三さんの詩の傑作は何といっても『私がいる』であろう。




ナザレのイエスを
十字架にかけようと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に
私がいる




 私は、過去に源三さんの詩を解読するにあたって、長い間、失誤していたことに気がつかなかったのである。では、その詩を次に紹介したい。




雪が降る
雪が降る
雪が降る
何も見えない
何も聞こえない
ただ
主よあなたと
私だけです




 この詩は、水野源三『第二詩集』に収められている。私はこの詩のイメージだけに囚われてしまって、詩の題を『雪』に改題すべきであると思っていた。即ち、詩の書き出しも二行目も「雪が降る」であるから、その雪が降るイメージが、題名の『雪が降る』によってかき消されてしまうので、題名は『雪』が良いと私は考えた。
 その後、味読してみると、源三さん本人の境涯に近づけなかったことが判明した。詩を書くために、雪が降り出したのではない。この詩が完成するかなり前から、源三さんは詩の中で佇み、雪はすでに降っていたのである。
 この安らぎを与える純白の森閑は、むしろ本文の扉を開くタイトルの『雪が降る』の中に込められているのである。詮ずる所、雪はずっと降り続いていたのだ。そしてさらに雪は降る。主に愛されて、愛されて雪は降る。源三は主に愛されているのである。
 それはまるで、北の地方にある泉の深淵から、勢いよく湧き上がる、清らかな水宙の歓喜のようである。その静寂の何と美しいことか。
 ここで水野源三さんの経歴について少し触れてみたい。戦後間もないころ、小学四年生の源三は赤痢に感染して脳膜炎を併発、やがて脳性麻痺に陥った。体の自由を奪われて、口もきけなくなり、源三に残されたのは見ることと、聞くことだけであった。
 後に、母親と源三の努力によって、五十音表を使って、一字拾う毎に「はい」という時には目を瞑れ、と言ったことにヒントを得て、詩作などに励むようになったが、実際にやってみると、極めて忍耐の要する作業である。この時、源三は十八歳。瞬きの詩人の誕生である。




生きる
神様の
大きな御手の中で
かたつむりは
かたつむりらしく歩み
蛍草は
蛍草らしく咲き
雨蛙は
雨蛙らしく鳴き
神様の
大きな御手の中で
私は
私らしく
生きる




 すでに天国へ凱旋している瞬きの詩人、水野源三は、体の自由を奪われて、口もきけなくなった時分から、自分が神様に愛されていることの喜びを、詩で伝えた。

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