2005年3月15日火曜日

第六十六回 人はパンだけで生きるにあらず

長い間取引を続けているクライアントから連絡があり、パリの発明展に出品するので加勢に来てほしいと乞われた。寝耳に水である。どうやらぼくに無断で、日本の関連企業に斡旋させておいて、お膳立てまでしてもらったらしい。いやはや、ぼく(弊社)との契約違反である。

早速、エール・フランスでシャルル・ド・ゴール空港まで飛んで会場に赴いた。ぼくは周りのブースを見渡して驚いた。場違いである。お門違いもいいところだ。あきれて物も言えない。

この発明展はアイデア商品が主流を占めており、我々が扱っている化学製品とは程遠い。どのような思惑があってのことか知らないが、コンベンションに精通している企業がバックに付いているだけに、ブースのパネルやデコレーションだけは、やけに垢抜けしていて見栄えが良い。

一週間開催されている期間中、ぼくは三日間ブースのお守をした。最終日には出展されている発明品の中から、大賞をはじめとする幾つかのアワードが贈られるらしい。けれども、我々の製品は、残念ながら選から漏れてしまった。場違いの発明展には違いなかったが、末端のアワードは受賞するだろうと高を括っていたので、みんなあんぐりと口を開いて天を仰いだ。

後片付けをしている最中に、イタリア在住の中国系の審査員が、夫人を伴って我々のブースを訪ねてきた。その審査員曰く、

「こんなに素晴らしい発明が、入選しないのはおかしい。私は審査委員会に抗議をします」

しばらくしてから、その中国系の審査員は、審査委員長とその他の審査員数名を従えて、

再び我々のブースのところへとやってきた。店じまいをしたというのに、我々は今一度ご歴々の前で、化学製品のデモンストレーションをご覧いただいた。そして質疑応答が始まった。

審査員たちが引き上げてから小一時間経って、我々は審査員室に呼ばれた。審査委員長が賞状とメダルを用意して待っていた。

「この度は、特別賞をお与え致します」

そう言いながら、審査委員長の表情は暗く、深く刻まれた眉間の皺が浮き彫りになっていた。

今晩は打ち上げである。クライアントは特別賞に満足しているらしく、饒舌になった。

「お薦めの、フランス料理のレストランへ案内してくれるか」

ぼくは即座に切り返した。

「無断で企業と組むのは契約違反ですよ」

「そんな堅いこと言いなはんな」

まったく困ったものだ。日本人には契約があってないようなものである。特に関西のおっさんと来たら、始末に終えない。

味が分かるような繊細な舌を持っているわけではなさそうだし、予算のこともあるだろうから、ぼくは適当なビストロに予約を入れようと思った。定番だがレ・アルの『ブノワ』が無難かと思ったが、それではぼくが面白くない。むしろ日本人には、魚介類を売り物にしているカルチェ・ラタンの『ドダン・ブーファン』の方が喜ばれるかもしれない。本来ならば、大勢の連中を従えて行くにはモンパルナスあたりの、魚介類を扱っているブラッスリーの方が気楽で良いのだが。

さて、二次会はみんなでシャンソニエへ繰り出したいところだが、クライアントが日本人の経営しているバーへ行こうと言い出した。結局その後でカラオケとなり、最後はラーメン食べに連れて行ってというのが落ちだろう。ぼくは丸四日間、原稿を書いていなかったので、締め切り間近の連載を書き上げて、日本へ送信しなければならなかった。そのことを口実にして、ぼくはホテルへ帰って来た。

このような事情で夕べは一睡もできなかったので、原稿を送信後、午前十一時頃まで眠ってからシャワーを浴びて、街へ飛び出した。今日は終日自由行動の日だ。

少し歩いてから、サン・ジェルマン・デ・プレのレストランに飛び込んだ。ブランチはレストランが推奨しているムニュ(定食)をオーダーした。午後は日頃の運動不足を解消するために、シテ島を渡って、市庁舎から凱旋門まで、途中の美術館や公園に立ち寄りながら歩いた。地下鉄に乗ってチェイルリー駅で降りると、パリで名高いサロン・ド・テ(喫茶店)『アンジェリーナ』に駆け込んだ。噂には聞いていたが、この店のモンブランは気絶するほどにクリーミーでまろやか。口の中はたちまち豪奢(ごうしゃ)なお菓子の国のメリーゴランド状態。

夜は、行きつけの小料理屋『マリア』(第十七回に登場)で、シビエを肴に心行くまでワインを傾ける。ツグミが出るか、キジが出るか、それともシカか。ワインを一本空にしたら、今度はチーズを肴にワインをもう一本空けて、お店の人たちに振舞うだろう。

夕刻、ホテルに一度戻って出直そうとしたら、ロビーで、クライアントが日本から一緒に連れてきた青年と出会った。市内観光をしている途中、地下鉄でスリに財布を掏られたという。クライアントが現れて、一緒に警察へ付き添ってくれないかと頼まれた。財布が戻ってくる訳でもないが、とりあえずレポートだけしておいた。

「今から食事に行こう」

クライアントがそう言うので、「マリア」のことを話したら、

「今晩は和食がええ」

クライアントはそう告げると、自分だけそそくさとタクシーに乗り込んで、手でカモンをする仕草をしながら、早く乗れと急き立てた。こんなことになるのなら、最初から先約があると言って断ればよかった。

クライアントは日本食のレストランでビールを注文した。突出しに枝まめが出てきた。特別に旨いとは思わない刺身と焼き鳥、それからてんぷらと煮物などを食した。あーあ、つまらない。

仕事もプライベートも契約も何もかもが適当な、零細企業のクライアントであるおやじと、長期に渡って付き合っていると、心身ともに疲れるのである。それにしても、この度は航空券とホテル代などの諸経費は言うに及ばず、出張手当ては規定通りきっちりと請求させていただく。

クライアントご一行は日本へ向かうが、ぼくは一人だけロサンゼルスへ向かって離陸した。これでやっと一人になれる。エコノミークラスでもエール・フランスの機内食は美味である。

「人はパンだけで生きるにあらず」ワインとチーズも必要さ。食後、ぼくはシートを後ろに倒して、深い眠りに就いた。

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