2002年7月19日金曜日

A・ソルジェニーツィン

16歳の秋、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」を読んだ。この小説はスターリン暗黒時代の強制収容所の一日を、奇妙な温かさを交えながらリアリズムの手法で描かれているのだが、何一つとして不自由の無い平和な日本で生れ育った16歳の少年にとっては、寡少なりとも所在無い問題作でもあった。16歳の私は自由を束縛される悲惨な戦争はおろか、ファシズムやミリタリズムといった思想体系についても、真摯に思惟巡らすことは無かったのである。まして収容所の中で苦悶する人間の心の相克や二重性、さらには神の計画といったこの小説の主題を、文脈の空隙に垣間見ることすら出来なかった。

以来、私はこの小説を含めて「ガン病棟」、「煉獄のなかで」、「マトリョーナの家」、「収容所群島」といった一連の文学作品を読み返しながら、ソルジェニーツィンと時代背景の全く異なる同国の作家、ドストエフスキーを徹底的に比較分析することに興味を覚えた。

新千年紀入りする昨年の大晦日の晩、家人がやはり15、6歳の時分に「ガン病棟」を読んで、非常に感銘を受けたと言う話を聞いたので、私たちは夜が明けるまでソルジェニーツィンとロシア文学に於けるキリスト教に言及、意見交換をしながら、21世紀最初のあけぼのを仰いだのである。

1970年にソルジェニーツィンはノーベル文学賞を受賞している。同年、大阪で開催された万国博覧会のスローガンは「人類の進歩と調和」であった。一体進歩とはどういった概念の上に成り立っているのだろうか。物事が良い方向へ進んでいくことだけで、果たして良いのだろうか。調和が無ければ、また、進歩もあり得ない。そのために不可欠なことは「御霊」に生る「自制」という名の実である。ソルジェニーツィンは「自制」の精神とは完全無欠で、威信に満ちた全能者を崇めることから始まると道破している。即ち個々人の人生行路に於いて、自らの精神を高めてより完璧なものへと近づいていく。その総和が進歩であると言うのである。更に「自制」とは「自由」を手にした人間が目指すべきものであり、自由を獲得する最も確実な方法でもある。

それでは、ソルジェニーツィンが「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中で描いている全体主義の中の自由とはどういうことであったのか。25年収監されているバプテスト信者のアリョーシュカとイワンのダイアローグに、その答えを見ることが出来る。
「おれだって神様には反対じゃねえんだ。よろこんで神様を信じてえくらいだ。だけど、天国とか地獄だけは信じねえな。でも、なんだっておれたちを馬鹿者扱いするんだ。天国だ、地獄だとご託をならべて? そこんとこだけは気にくわねえな・・・・・・いくら祈ってみたところで、この刑期は短くなりゃしねえんだ。とにかく、『はじめから終わりまで』入っていなくちゃならねえんだ」
「いいえ、そんなことを祈っちゃいけません!」と、アリョーシュカは声を震わせた。「自由がなんですか? 自由の身になればあんたのひとかけらの信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯されてしまいますよ! いや、あんたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんですよ! ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか! 使徒パウロはこう申されました。『汝ら、なんぞ嘆きてわが心をくじくや? われ、主イエスの名のためには、ただに縛らるるのみならず、死ぬるもまた甘んずるところなり!』とね」(木村浩訳)

追放期間中、ソルジェニーツィンは密かに書き続けた散文が、たとえ一行でも生存中に活字になることは無いと確信していた今からおよそ40年前(40歳)から、終始一貫して全能者に対して忠実にまったし信頼を寄せている。彼の21世紀論の一つは「真の精神的満足は、何かを手に入れることではなく、それを拒否することによってのみ得られるのである」

「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」
(1コリント 12:9)

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