ノーベル文学賞を受賞しているイギリスの哲人、B・ラッセルの、「私は耳で本を読んだ」と言う言葉は有名である。夫人に朗読をしてもらって、それを聴くことであるが、「耳で本を読む」ようになってから著しく文章が巧妙になったと、ラッセルは自伝の中で述べている。
ぼくは自分が書いたものを、細君によく朗読してもらう。文章を推敲しながら、幾度も繰り返して読んでもらうことがある。細君はぼくの良き理解者でもあるのだが、ぼくが書いたものに対して得心が行かなければ、容赦なく痛烈な批判を浴びせてくる。この非常に厳しい検閲にパスしなければ、細君の気色を損ずるので、ぼくはむかつく胸先を押し殺しながら、細君の意向を伺うことにしているのだ。だが、超辛口の細君に褒められるとやはり嬉しいものである。近頃の細君は随分忙しいと見えて、ぼくが書いた原稿や印刷物が目の前にあっても、見向きもしてくれないので少し寂しい思いがする。
先般、『毎日ファミリー新聞』(毎日新聞社発行)に連載中の、『愛の挨拶』(第4回)と題した子育てに関するエッセイを、細君が読みながらしくしくと泣いているではないか。ぼくが書いたものを読んで細君が泣いたのは、随分久し振りの事である。それだけにぼくは飛び切りに嬉しかった。そこで、細君の涙に感謝を込めて、そのエッセイを以下に転載することにした。
ジョイを育てながら子育てが如何に大変で重要であるかを、身を持って体験する事が出来ました。殆どの父親は仕事や付き合いを優先させてしまい、育児に携わろうとする意識が希薄です。ぼくは育児の機会が与えられたお蔭で、日々、色んなことを学び、そして考えさせられていますが、自分の言動を改めなければならないと思う節が多々あります。
誰もが健全な育児を望み実行しようとしますが、その礎となっているのが夫婦の関係ではないでしょうか。お互いに労わりあって相手を尊重する気持ちが芽生えれば、子供もそのように育ちます。アメリカ人は子供に対しても、はっきりとエクスキューズミーと言います。夫婦の間柄であっても、ことあるごとに自然に儀礼的です。
文化や習慣の違いがあるので仕方がない、と言ってしまえばそれまでです。ぼくは細君に対して、つい命令口調になってしまうのです。ジョイに接する時だけ繕ってみたところで、彼女の感性は大人が想像している以上に繊細です。日頃の悪習慣を一挙に改善しない限り、子育てにも影響を及ぼします。
エドワード・エルガーが妻に捧げた曲で『愛の挨拶』というのがあります。この優美な旋律に聴き入っていると、夫婦間の礼儀は愛情を一層育み、その仲睦まじい雰囲気が、幼児の情操教育に大きく係わって来ることが分かってきます。
ぼくはこのように考えてみました。そして『詩』のような文を走らせました。『愛の挨拶』とは、わたしたちが日常で交わしている何気ない言葉の中に秘められています。夫婦の会話であれ、子供の相手をする際でも、如何に言葉の使い方が肝要であるかということです。
言葉はもともと 美しいものであった/みんなが美しい言葉を話せば/世界中が平和になる/学校では小難しい事ばかり教えている/美しい言葉(日本語)は/心に安らぎをもたらしてくれる/思いやりのある心を育てる
子育てと仕事の両立は困難を極めます。共働きの家庭では女性は仕事以外に、家事と育児をこなします。例え専業主婦であっても、家事と育児の両立は心身共に疲労困憊します。そのうえ海外での生活(駐在)をしていれば尚更です。
誰でも多かれ少なかれ、育児ノイローゼになるようなことがあるでしょう。以前にも書きましたが、ぼくも育児ノイローゼに悩まされたことがありました。愛するわが子のためとはいえ、こんなに手をかけられて自分も育ってきたのかと思うと、改めて母に厚謝すると共に、日頃育児に携わっておられる皆様方に、エールをおくりたい気持ちで一杯です。
『国際児童図書評議会』のスピーチで、皇后様は子育ての時期を以下のように述懐されておりました。「未来に羽ばたこうとしている子供の上に、ただ不安で心弱い母の影を落としてはならない、その子供の未来は、あらゆる可能性を含んでいるのだから、と遠くから語りかけてくれた詩人の言葉は、次のように始まっていました。
生まれて何も知らぬ 吾が子の頬に/母よ 絶望の涙を落とすな/その頬は赤く小さく/今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも/いつ 人類のために戦い/燃えて輝かないということがあろう・・・ 」
美しく力強い詩人の言葉は、勇気と希望を与えてくれます。ぼくは『愛の挨拶』を早速はじめてみることにしました。先ず、自分自身が変わらなければ理想の子育ても、家庭でのリーダーシップも発揮できないのだから。(続く)
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