2003年7月6日日曜日

第二十五回 ポード・レルケ

中学二年生の春に、ボードレールの詩を読んで大層感銘を受けた。往時のぼくには『悪の華』や『パリの憂鬱』といった詩集が、あまりにも難解すぎたので、よく理解できていなかったと思うのであるが、詩とはこのように書くべきものなのかと、しみじみ思ったことを今でもはっきりと憶えている。

詩を書くようになってから最も強く影響を受けた人物は、アンリ・ミショーとエドガー・アラン・ポーの二人であった。それからゲーテやランボー、ヴァレリー、リルケ、プーシキンとTS.エリオットなどからも詩作の手法を学んだ。

中でも、ぼくが真剣に私淑していたのはボードレールであった。ぼくはボードレール先生の美と反逆の結晶に、身震いしながらも引きずり込まれてしまったのである。また、ボードレール全集の翻訳を手掛けられた阿部良雄さんの絶妙な訳は、腹の底から絶賛したくなる名訳である。

かれこれ五年ほど前の話になるだろうか、イタリアやフランス料理の研鑚を積むべく、パリの一流レストランの厨房で、武者始業に励んでいた年少の友人が、日本へ帰国して、いよいよフランス料理のレストランを始めることになった。

その彼とオペラガルニエの前で待ち合わせをして、近くのカフェで世間話をしているうちに、
「日本で始めるレストランの名前を一緒に考えてほしい」
彼はぽつりと言った。

彼はオーナーシェフではないが、レストランの名前を一任されているらしかった。スポンサーからは、若い女性から中高年に至るまで、女性の心を掴むような、エレガントでエキゾチックな名前を付けてほしいとの要望があるらしい。因みにロケーションは、東京の自由ヶ丘である。

そこでぼくは、はてと、頭を絞った。するとものの五秒も経たないうちに、パチンと閃いた。
「ポード・レルケというのはどう」
「悪くないね」
彼はそう一言だけ言ってから、メモを記した。ぼくは心の中で「あれ、この名前の意味を訊ねないのかい」と呟いた。
「ポード・レルケを(レストランの名前に)採用することになったら、『ピエール・ガニェール』へご招待しますよ」
そう言ってから彼は立ち上がった。
「実は今晩仕事なのです」
ぼくは彼と握手を交わした。彼は足早に地下鉄の駅のほうへと姿をくらました。

以来、彼からの音信が途絶えてしまった。時折ぼくは、レストランの話は上手くいかなかったのだろうか、と彼のことを思いだす。パリのアパートは引き払っているので、横浜にある彼の実家の電話番号だけが頼りであった。けれども、そのうちに連絡してくれるだろうと思い、こちらから電話を入れることはしなかった。

昨年の秋、モンパルナスのカフェで、偶然に彼の元同僚であった日本人シェフとばったり出会した。過去に一度だけ、紹介された程度の面識しかなかったが、相手もぼくも、お互いの特色をよく捉えていたせいか、目線が合うなりどちらからともなく会釈した。

そこでぼくは、この元同僚から、衝撃的な話を聞かされた。
「彼は帰国後間も無くして、交通事故で亡くなりました。居眠り運転のトラックと正面衝突して、即死だったそうです」

ぼくは絶句した。ぼくと彼とはそんなに親しい間柄ではなかったが、ぼくは彼の如才無い優しさに、いつも心が惹かれた。これからという時に、彼も、親族の方々も、さぞ無念なことであったろうに。

ぼくはカフェを飛び出して、道路を隔てた向かい側に広がっているモンパルナス墓地の中に、身を隠すようにして入っていった。

「ポード・レルケか」
ぼくは独り呟きながら歩いた。そして、ボードレールの墓の前で立ち止まった。
「ポード・レルケとは、ポーとボードレールとリルケのことである。ぼくの好きな、三人の詩人の名前を連ねただけのことだ」

ぼくは目を閉じてしばらくその場に佇んだ。そして祈り始めたら、るいるいと聖句が口からこぼれ出た。
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23:4)

・・・・・・ 静かに目を開けると、秋の声が美しく澄んでいた。

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