2003年8月1日金曜日

第二十七回 日本人には日本人のように

社会人となって初めて貰った給料で、上京して来た両親にフランス料理をご馳走した知人の話。場所は高級ホテルの最上階、晩餐はいよいよクライマックスのデザートの時を迎えた。

給仕の男性が、デザートの種類の説明を一通り終えると、ご両親のどちらからともなく、
「最後にお茶漬けを一杯ください」
と給仕に向かって言った。

知人は、あの時ばかりは顔から火が出る思いがしたと言う。給仕の男性が返答にとまどって苦笑しているというのに、ご両親は顔を見合わせながら、「ぬか漬けがあればなお良いのに」と、涼しげに語りあっていたそうな。

知人は随分と恥ずかしい思いをしたであろうが、この時のご両親の気持ち、ぼくにはよくわかるのだ。

フランスで浮世絵展が開催された折、パリの画家たちの間で大層評判になった。ルノワールも浮世絵から影響を受けた一人であったが、浮世絵展を熱心に鑑賞した帰りに、家具屋の前を通り掛かったら、ショーウインドーにルイ王朝風の家具が陳列してあった。その瞬間、ルノワールは何ともいえない懐かしさと気楽さに、身も心もすっかり浸ってしまったと述懐している。

二十数年前、ロサンゼルスの日本食レストランで、ざるそばを食べた時のこと、店内のお客さんはスーツを着たビジネスマンの男女が大半を占めていた。日本人らしき人物はぼく一人だけであった。

ぼくはそばつゆに薬味と山葵を入れてから、そばを箸でつまんで口許まで運ぶと、おもむろに口を開いてツルツルと音を立てながら味わった。するとぼくの隣に座っていた男性が、ぼくの方をちらりと見た。二口目も同じように音を立てて食べた。今度は周囲からの視線を強く感じた。

三口目からは極力音を立てないように心掛けてそばを食べた。こんなに緊張してそばを食べたのは、生まれて初めてのことである。郷に入っては郷に従えというが、音を立てずに食べるざるそばの味は、何ともあじきないものであった。

アメリカではガールフレンドと別れたければ、彼女の前で音を立ててスープを食べろといわれている。また、留学生がホームステイ先の家庭で、夜食にインスタントラーメンを啜っていると、音を立てて食べないように注意を受けたという話をよく聞く。

さて、今年のロサンゼルスの夏は格別に暑い。そこで部屋の窓を全開して、ぼくは毎晩裸になって眠っている。パンツも履かないで素っ裸になってベッドで眠るのは、生まれて初めてのことである。

この暑い最中、ぼくは3rdとフェアファクスのコーナーにあるファーマーズ・マーケットまで出掛けてみた。目当てはブラジル料理のレストラン『Pampas』で、少し遅目の昼食をとるためだ。

ぼくは直ちにマーケットの中央にあるバーで、生ビールをひっかけてから、バッフェ(『Pampas』)に立ち寄って幾つかの料理を大きな洋食皿に盛り付けた。ぼくの小脇には、トレーダージョーズに立ち寄って購入したバローロ(赤ワイン)のボトルが挟まれている。

食事は風通しの良い二階のダイニング・ルームで、本でも読みながらゆっくりと楽しむことに決めていた。北の窓からは、大きなハリウッドの白いサインが見える。土曜日なので、観光客以外にも買い物客や映画を観に来る人たちで、駐車場は満車の状態が続いていた。

この二階にあるダイニングは、いつ訪れても閑散としている。知る人ぞ知る静寂な憩いの場となっている。ぼくは窓際のテーブルに座って、まず、持参したバローロの栓を抜いた。ワインをひとくち口に含んでから、共にレアーのラムとガーリック・ビーフのシュラスコ(ブラジル風バーベキュー)を一切れづつ頬張った。

和牛と違って脂気は少ないが、しなやかで瑞々しい肉塊を咀嚼すると、肉の旨味汁が舌の味覚芽を包み込むようにして、噛み砕いた肉片と一緒に食道へ流れ落ちた。同時に、鼻腔に抜ける野性的な香りと、岩塩だけで味つけされた肉本来の純朴な味覚が、口腔に湿る僅かなバローロの成分と中和して、一気に美味の極致へと達してしまった。もうぼくは、心がうきうきリオのカーニバル気分である。

食後にはカプチーノでも飲みたいところだが、気温が高くて暑いので、ミネラル・ウオーターを何度も飲んだ。昼と夜の食事を兼用するつもりでいたので、家を出る間際にサランラップを広げて、ご飯とその上に梅干をのせた。

ぼくはポケットからラップにくるまれた日の丸おむすびを取り出して、テーブルの上に置いた。やっぱり、最後の締めくくりは「これ」に限る。

パウロも言っているではないか、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにと・・・ そして日本人には、日本人のように。

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