関西では「ジャンケン」のことを、「インジャン」といったりする。このインジャンなるものは言うまでもなく、勝ち負けを決めることにあるのだが、本来は結果よりも、その過程を愉しむことにあったのだ。
牽制(けんせい)、後出し、待ったをかける、両腕をねじって両手の穴の間を覗くこと等、これらの駆引きを通して、互いに心の触れ合いが深まっていくのである。
今は亡き上方漫才界の大御所、中田ダイマル、ラケットの漫才のネタに、ジャンケンを取り扱っているのがある。相手がチョキを出して、自分がパーの場合でも、「ぼくの勝ちや!」と、開き直る。理由を聞けば「ぼくのパーは鉄板だ」という。
ジャンケンは遊びを始める前の鬼決めや、先攻か後攻を決めるための一種の籤(くじ)であると同時に、ジャンケンそのものが既に遊びの一部となっている。
ぼくは「最初はグー」で始まる、この官僚主義的ジャンケンの習慣に嫌悪を催すのだ。ジャンケンを始める間際に、「最初はグー」でタイミングを斉えておくと、確かに後出しが無くなる。けれども、そこには人間臭さも、人生の醍醐味も、そして何よりも遊び心が消滅してしまっている。
「最初はグー」以前から流行り出していたジャンケンで、「あっち向いてホイ!」というのがある。あるテレビ局のディレクターの話しによると、これを最初にやりだしたのが萩本欣一さんだそうである。
じつは、この「ジャンケンホイ、あっちゃ向いてホイ」なるネタは、30年ほど前に大阪のテレビ局で始まった『脱線スカタン選手権』(吉本興業)という番組の中でのゲームが発端である。言わば、欽ちゃんはパクリなのだ。
いずれにしても、たかがジャンケンではないか、と思いきや、されどジャンケンである。話は逸れるが、ここで少し人間の「手」について考えてみたい。
哲人モンテーニュは、人間のジェスチャーについて、以下の感想を述べている。
「手を見たまえ。手が約束し、魅惑し、訴え、脅かし、祈り、哀願し、拒絶し、招き、審問し、称賛し、告白し、媚び、教え、命令し、嘲り、その他もろもろのことを行なうさ様を。舌をうらやましがらせる、その無限の変化を」
また、アリストテレスは、『天と地の根源について』のなかで、「人間の手の紋様は理由なくして刻まれたものではなく、天体から流れてくる目に見えない力と、人間自身の個性に由来するものだ」と述べている。
聖書の中にも「手」に関する記述は枚挙に暇がない。ウオルター・ソーレルの『THE STORY OF THE HUMAN HAND』からの引用であるが、聖書の中には手に関する言及が1227箇所あり、最大は『サムエル記上』に94回、「手」の記述がある。
ユダヤ教徒が神の摂理を表現するにあたって、それらの象徴として神の「手」を用いていたことは、旧約聖書を見れば理解出来る。彼らの描く「手」は常に神の「手」であったのだ。また、新約聖書にも「手」に関する記述が幾つかある。「主のみ手が彼と共にあった」(ルカ1:66)、「見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる」(使徒行伝13:11)などがそれであり、ヨハネの黙示録では「天使の手」という言葉がくりかえされている。
夕べ ぼくはイエス様とジャンケンをした夢を見た 広い野原の真ん中で 夕映えがこの上なく美しかった イエス様は慈愛に満ち溢れた顔で ぼくの目の前で 手を広げられた ぼくはその手のひらの中へと 消えていってしまった 身も心も 総てを主に委ねて ああ なんとここちのよいことか |
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