先月は久しぶりに多事を極めた。ひとつの物事に集中しながら多忙であるならばまだしも、それぞれの分野が絡み合うスクランブル・ビージーに陥ってしまうと、まったく手の施しようがない。
そこへ来てPCの調子がおかしくなると、コンピューター・アレルギーのぼくなんぞは、コンピューター・ショップと仕事場の間を奔走する羽目になる。
「こんな未完成なものを世界中に広げよって、まったくけしからん」
ぼくのボヤキが沸点に達すると、
「ご自分が解らないからといって、短気を起こさないでください」
こういう場合には沈黙を貫けば良いものを、細君が横槍を入れてくるから益々イライラしてくるのだ。
けれども、二年程前であったろうか、インタビューに応じたビル・ゲイツが、コンピューターのハードにしてもソフトにおいても、製品として未完の産物であることを認めていた。
その模様を細君と一緒にテレビを観ていたぼくは、
「それみろ」
と、呟いて彼女の横顔を見た。まったく反応がないので、
「ぼくの言った通りだろ!」
今度は語気を強めて言った。それでもなお彼女は黙っていたが、それ以来ぼくのPCについてのボヤキに細君は介入しなくなった。それにしてもビルよ、散々資産を築き上げておいてから、かのようなことをぬかすなものではない。すべて表示
ぼくのPCにはウインドウズ98が内蔵されていたが、コンピューター・ショップから戻って来た折には、ウインドウズ2000に様変わりしていた。ショップのオヤジは涼げな顔をして胸を張っていたが、以前と仕様が違うので、急ぎの仕事を仕上げるのに使いずらいことこの上ない。
一等困ったことは、支離滅裂なワードである。ウインドウズ98をそれなりに調教したつもりでいたので、随分と使いやすくなっていた。しかれども、コンピューター・ソフトの開発において、日本語文化をあまりにも粗末に取り扱っていることが腹立たしい。何が最新だ、グレード・アップだ。これでは元の木阿弥ではないか。
そういえば先日、ミツワ(トーランス)のフードコートで小耳に挟んだのであるが、小学生の子供が二人いるらしい母親が、真顔で同年代の女性と話をしていた。
「子供たちは国際人なので、英語をしっかりと理解してくれさえすれば、日本語は解らなくてもいいわ」
最近の若いお母さんの中には、こういった考えを持つ方が増えている。その点、中国系、フランス系のアメリカ人は、母国語を誇りに思っている。また、自国語を愛していることにおいてはメキシコ人でも、ロシア人でも、ブラジル人でも同じである。
英語力が発展途上にある日本人には、英語コンプレックスに陥ることがあるだろうが、日常生活の中にあまりにも横文字を取り入れ過ぎているのではないだろうか。英会話の学校や教材、そして英会話のhow toものの本が氾濫している日本列島だが、日本語の奥ゆかしさをもっと啓蒙すべきである。
低俗なマスメディアが横文字を面白おかしく煽り立てれば、若者は訳の判らない下賎な横文字に傾倒する。何年か前に、日本人観光客のグループがリトル東京で写真を撮っていた際に、全員が手の中指を立ててポーズをとっている。その前を通りかかったアメリカ人は首を大きく横に振りながら、顔を背けて去っていった。
その時、ふざけ合いながら観光客の若者たちが発していた言葉が
「オー マイ ゴッド」
無教養なアメリカ人ほど、よく連発するフレーズだ。
英語は大好きだけど英語が話せない日本人。一方、モダン・ジャパニーズは横文字に汚染されつつあるが、最新のテクノロジーであり、今や小学生でさえも一人が一台持つようになってきたセルラーホーンのことを、彼らは一様にベたな日本語で「携帯」と呼んでいる。
横文字大好きの日本人が、どうしてミニ・テレホンや、セルラーといった呼称にこだわらなかったのだろうか? と、考えると、まことに「けったい」なことだ。
もし、日本人の一人一人が聖書を携帯するようになれば、日本人の英語力は現在のレベルよりも遥かに向上するであろう。そして何よりも、モラルの発展に寄与することである。あなたも、常に聖書を携帯して、毎日欠かさず読んでみませんか。
0 件のコメント:
コメントを投稿