2004年5月15日土曜日

第四十六回 キリストには代えられません

NHKの衛星放送を観ていたら、道場六三郎さんが料理番組に出演されていた。道場さんは家庭においても、よく台所に立つことがあるらしい。家庭の厨房では、もっぱら奥さんの助手だそうだが、もたついていると、

「あなた、それでも板前なの」
と、奥さんから叱責を受けることがあるという。
ぼくが家庭で少し乱暴な言葉を使うと、家人の表情はたちまち険しくなってくる。そして、ぼくに向かって語気を強めて言うのである。
「あなた、それでも詩人なの」
巷では、料理人であれば、ああだ。詩人であれば、こうあるべきだ。と、決め付ける傾向があるように思う。
料理人が厨房で手際よく振舞えるのは、料理長の回りに何人もの弟子が助勢しているからである。
ヴェルレーヌの詩語はまことに美麗であるが、彼が日ごろ使っていた言葉は、ならず者でも使わないような、それはそれはひどいものであったらしい。
まあ、世の中こんなものである。
先日、米国在住の或る日本人僧侶が書いた新聞のエッセイを読んで、ぼくは甚だ以って失望してしまった。この僧侶は受難週の時期に、スペインのアンダルシア地方を回遊しているので、各地でくりひろげられている受難劇の祭りを、否応なしに観覧しなければならなかった。
僧侶はイエス・キリストの磔刑(たっけい)像は残酷極まりないが、釈迦の涅槃の姿には苦悶や流血が一切なくて穏やかである。これが西洋の宗教と東洋の宗教の大きな違いである。と述べている。
また、イスラムの国でのアメリカ主導の戦争は、同根のイスラム教徒とキリスト教徒の衝突であり、彼らは血を見ることの好きな文明と宗教を持った人たちであると言う。
締めくくりは、この二つの宗教に「寛容」を求めることは至難なことなのだろうか。と、嘲弄する始末である。
正直なところ、ぼくは笑ってしまった。おそらくエッセイを読んだ殆どのクリスチャンの方たちも、ぼくと同じ考えであったと思う。
まず、宗教家として他宗教を揶揄する場合には、もう少し批判する宗教の本質を見極めてからにしていただきたい。これでは勉強不足を通り越えて、単なる愚昧無知である。
僧侶はイエスが磔刑に甘んじた意図であるとか、受難後の復活には一切目もくれていない。それから西洋の宗教と東洋の宗教の大きな違いを述べる前に、西と東の宗教を明確に識別するための概念論を伺いたい。キリスト教発祥の地パレスチナ(カナン)は、西アジアの地中海南東岸の地方にあるので、必ずしも西洋の宗教としてアイデンティファイできないであろう。
笑止の至りはキリストの断末魔は流血と残忍に満ちているので、血を見ることの好きな文明と宗教が絶えず渦巻いていて、一連のイスラム戦争と関連づけていることだ。
ならば釈尊入滅の表情が穏やかであるから、仏教徒は寛容であるとでも言いたいのか。真実の「寛容」とは、顔の表情やなりふりなどで表現されるものではない。行動を持って他者へ伝わるのである。
キリストの寛容であるとか慈愛は、自己を満足させるための悟りなどではない。私たちの罪をあがない、永遠の命を保証するものである。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
釈迦は飽く迄も人間であったが、キリストは磔刑の後に蘇った神の子であったのだ。
ぼくは今晩、久方振りにエンジェル・ヘアー(パスタ)を茹でた。ソースはミートソース。その上にクレソン、大葉、シアントロ、ペパーミントなど、その日の気分によって刻んだ薬味を振り掛ける。
トマト色のミートソースはキリストの血、青物の薬味はキリストの涙を象徴している。
食前に、いつものように細君と娘と三人で祈った。すると感謝と幸福が、仲良く手をつないでパーッとさざ波のように打ち寄せてきた。ぼくの胸はたちまち鳩の胸のように、まるく膨らんだのである。
「♪ キリストには代えられません

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