2004年6月15日火曜日

第四十八回 自分で書くことの意義

自分が書いた文章が、活字になることは嬉しいことだ。例えそれが学生時代の文集や同人誌であったとしても、人に読んでもらえるという期待と、活字になった自分の名前を見て、仄かに希望が湧いてくる。
メジャーの新聞や雑誌に自分の作品が掲載でもされたら一大事だ。一抹の興奮を覚える。作家にでもなったような気分になる。ひと昔前までは、素人の作品が活字になることは容易ではなかった。
昨今は猫も杓子もインターネットの時代だ。ホームページを開設すれば、自分の書いたものが一夜にして活字になり、世界中に配信される。
その文章とやらは、E-メールの場合は、殆どが普段喋っている言葉そのものである。身内や気心の知れた間柄では、多少言葉が乱暴になっても差支えが無い。けれども、まだ会ったことの無い未知の人間に対しても、不謹慎な文章で送信されてくると、ぼくなどはたちまち閉口してしまう。
通常、プロのもの書きであっても、自分の書いたものが活字化されるまでには、編集人が介在して幾度かの校正と校閲が行われる。よって、自分ひとりで作成したと思わしきホームページを見ていると、随分と酷いものがある。誤字、脱字は言うに及ばず、訂正を要する文章は惨澹(さんたん)たるものである。これではいくら内容が優れていても、読者は興ざめしてしまう。
ぼくは或る牧師から、まだ出版して間もない彼の本を頂いたことがある。その牧師がテレビか何かに出演していた際に、彼の経歴が余りにもユニークかつ、ドラマチックであったので、早速出版社の目に留まったのだ。
ぼくは頂いた書籍を帰りの電車の中で、取り敢えず斜め読みしてみることにした。ところが余りにも誤字や脱字が多いので、途中で不愉快を覚えながらも、何とか最後まで読み終えていた。
訂正を要する箇所は、ぼくが乱読しただけでも優に十箇所は超えた。専門家が時間をかけて校正をすれば、ざっとその三倍近くになるのではあるまいか。
出版社は名前も聞いたことのないような、いわゆる二流の出版社である。多分、自分のことが本になる企画出版に、その牧師は飛びついたのであろう。
似通った経歴を持つもう一人の牧師も、それから少し遅れて本を出した。こちらの方は一流の出版社である。ぼくが拝読した分には、落ち度は一切見当たらない完璧のものであった。そして一方よりも、こちらの方が断然に文章が上手い。
ぼくはまるで一流出版社と二流出版社の、能力の差を見せ付けられたような気持ちになった。
昨年、英文学者の大久保 博さんがマーク・トウェインの『王子と乞食』の翻訳本を、角川書店から上梓されたので、ぼくにも一冊、寄贈して頂いた。氏は日本においてマーク・トウェイン研究の第一人者である。これまでに『ハックルベリ・フィンの冒険』や『ジャンヌ・ダルク』など、翻訳本が完成する度に送呈して頂いている。
大久保 博さんのように直向に翻訳に打ち込みながら、こつこつと綴る文章には、なかなか味わい深いものがある。鍛錬された文章の技術とはまた別に、その人の持ち味が文体からひしひしと滲み出ていて、読者に一方ならず感銘をもたらしてくれる。
言葉はコミュニケーションするための単なる道具に過ぎないと言ってしまえば、最早それまでである。けれども、心から他者へ伝えようと願うのであれば、ゴーストライターなどに頼らないで、時間をかけてでもよいから自分で書くことである。まして、道を伝える牧師であるならば尚更のことであろう。
三浦綾子さんは生前にサインの依頼を受けると、自分は芸能人ではないとの理由から、自著の扉以外には、サインはなさらなかったと言う話を聞いたことがある。
ぼくは件の牧師の講演会へ出席した折に、本人が執筆していない著書以外に、色紙やTシャツなどにもサインしている光景を見た。
大久保 博さんにしても、三浦綾子さんにおいても、使命感を携えて、こつこつと努力を積み重ねて来られた方には、練られた文章や温厚な人柄から、凛としたが謙譲が伺える。
「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」(ローマ10:8) 
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)
言葉は神なのであるから、もっと自分で書くことの意義について、達観すべきではないだろうか。

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