2004年8月15日日曜日

第五十二回 父

八月一日は父の祥月命日である。不帰の客となって今年で十七年が経過した。
その日の朝、娘を保育園に送っていった帰りに立ち寄った日系のスーパーで、ぼくは乾麺の並んでいる棚の前で、そう麺にしようか冷麦にしようかと迷った挙句、讃岐の冷麦を購入して家に帰った。
ぼくはお昼時分になったところで、今日は父の命日であることにようやく気付いたのである。ぼくは冷麦を茹でながら、しばし故人を偲んだ。生前、父は冷麦が大の好物であった。夏になると、父はよく母に冷麦をねだっていたことを思い出した。
円形のちゃぶ台を家族で囲んで、冷麦をすすった時の昼餉(ひるげ)の思い出がこみ上げてきた。きっと父が、スーパーで冷麦を買うように、ぼくの足を向かせたに違いない。
父は至極こころの優しい人であった。子供の頃に母から叱責されて、体罰を与えられたことは度々あったが、父からは一度も手を掛けられた覚えがない。
父は非常に真面目な人物であったが、ぼくがまだ五、六歳の時分に、芸能人の谷町をするような粋人でもあった。
銭形平次で一世を風靡した故大川橋蔵が、歌舞伎役者から映画俳優に転向し始めた時分に、橋蔵さんはわが家によく遊びに来ていた。橋蔵さんは父の事を「小父さん」と呼んでいた。兄や姉たちは、ぼくよりも橋蔵さんのことをよく覚えている。
姉の話によると、或る日、橋蔵さんが深刻な顔つきをして父を訪ねて来た。女優の朝丘雪路さんに好意を寄せているらしく、お付き合いしたいと言うのである。人の良い父は、さっそく橋蔵さんの提灯持ちをすることになった。
後日、父は橋蔵さんを従がえて、京都にある朝丘雪路さんの住まいを訪問したらしい。この後はぼくの推測であるが、映画俳優に転身してから鳴かず飛ばずの橋蔵さんを、妙齢かつ美貌の女優が相手にするわけがない。
袖にあしらわれた橋蔵さんは、しばらくたってから役者として奮起した。テレビ時代劇『銭形平次・捕り物帳』が大ヒットしたのである。
繁忙を極めるようになってから、橋蔵さんの足はすっかりわが家から遠のいた。ぼくと一回り年齢が離れている兄は、京都で乗馬の練習を終えると、友達を誘って、時おり太秦の映画撮影場へ橋蔵さんを訪ねて行ったらしい。
戦後、日本の鉄鋼業界は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた。業界の人間であった父は、好景気の中で、御多分に漏れず随分と羽振りがよかった。業界誌では往時の錚々たる人物と肩を並べて、父の写真や記事が掲載されていた。
父が亡くなってからしばらくして、父が寄稿していた随筆を何編か読んだ。この時、ぼくは父が文章を書いていたことを始めて知ったのである。ぼくの目は自然と細くなって、父の知らざる一面を垣間見ていた。なかなか機知に富んだ文章である。含蓄があって筋も良い。時おりユーモアがほどこされている。だが ・ ・ ・ 「ちょっと待てよ」とぼくは思った。
この文章は本当に父が書いたものだろうか、じわじわと疑念が込み上げてきたのである。ぼくはもう一度読み返してみた。文脈を分析してみたのだが、どうも腑に落ちない。その晩、ぼくは母に父の随筆を読んだことを打ち明けた。
最初、母は懐かしそうにぼくの話に耳を傾けていたが、ぼくが「この随筆は父が書いたものではないですね」と、率直に告げると、寸刻、母の顔が曇ってしまった。
かくして替え玉の主は、父の学生時代の恩師であった。どちらかと言えば、文章を書くことが苦手であった父の苦肉の計である。日ごろ誠実な父も、さぞ頭を抱えたことだろう。けれども、ゴーストライターとは、やってくれるではないか。ぼくは父の写真を見ながら相好を崩した。
父は要職にありながらも、習い事の好きな人であった。まだ東海道新幹線が開通していなかった時代から、わざわざ東京から大阪の自宅まで、清元の梅寿太夫というお師匠さんと、囲碁の鍋島先生が定期的に訪れて稽古をつけていた。
稽古はいつも夜の七時ごろから始まって、遅い時には十時ごろまで続いた。それから酒を飲んでお開きとなる。ぼくは三味の音色や碁盤に碁石を打つ音を子守唄代わりにして眠ったものだ。
昼は昼で、やはり東京から志賀山流の日本舞踊の先生が定期的に訪れて、わが家は日舞の稽古場へと様変わりする。その度に、二十人ほどいたお弟子さんたちが、午後の二時ごろから順番にやって来て、個別に稽古をつけてもらう。三人いた姉たちも、随分と熱心に稽古に打ち込んでいた。
和服姿の年頃の娘さんたちが、入れ替わり立ち代り出入りしていたわが家では、のべつ華やかな雰囲気が漂っていた。お弟子さんの中には、壮年の東映の女優さんが二人いたが、ぼくは子供心に、彼女たちの化粧や和服の着こなしに、妙に近寄りがたい女の性を感じていた。
いつも三味線や太鼓の音で盛り上がっていたので、時おり、近隣にあった『ひし亭』という料理屋と間違えて入ってくるお客がいた。お弟子さんは全員女性であったが、昼時に家にいたのは母と祖母と、お手伝いさんが二人。従ってぼくは、小さいながらも黒一点?であった。
帰国した折、父の遺品を整理している際に、ダンボールの箱の中から聖書が出てきたのには驚いた。そう言えば生前に、父はぼくに語ってくれた。少年時代に「お菓子をくれるので、日曜日には教会に通っていた」
時おり父は、「神は愛なんだ」と、呟くことがあった。或る日のこと、往来で若い男性が四 、五人の無頼漢に、寄ってたかって殴られていた。道を行き交う人々は、誰もがそ知らぬ顔をして通り過ぎていく。
その時、ぼくは父の正義を観望したのである。
「どのような経緯(いきさつ)があるのか存じませんが、一人の人間を大勢で殴るのはよしなさい」
ともすれば父も殴られて、大怪我をしていたかもしれないのに、少年であったぼくは、父の勇気をハラハラしながら見守っていた。
クリスチャンになって丸二十二年になるぼくだが、果たして見ず知らずの者に対して、あの時の父のように、自分の身体を張って助けることが出来るだろうかと省察した。
ぼくは薬味のよく効いた麺つゆに冷麦を浸すと、腰のある細長い麺の集団を一気にすすり上げた。やがて冷麦が食道に流れ落ちた。つるりとした爽やかな咽越しは、父の追憶を益々甦らせる。

それから、ぼくは一句詠んでから、娘を保育園へ迎えに行く時刻まで、書斎で新聞に連載している原稿のつづきを書いた。

─ 父しのび自由の国で冷し麦 ─ 

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