2004年8月18日水曜日

第二十八回 弱い時にこそ強い

時折、音楽家が羨ましく思えてくることがある。大勢の聴衆を前にして、演奏が一曲終わる度に拍手が貰えるからだ。

ものを書いていると、読者や周囲の者からの反応が非常に遅いような心境に駆られることがある。良きにせよ悪しきにせよ、無名のもの書きの下へは、読者からの概評がなかなか耳に入ってこないのである。

その点、音楽家は良い。みんなの前で演奏さえすれば、アマチュアバンドであっても温かな拍手が貰えて、次の音楽活動の励みとなるではないか。

かれこれ三十年程前の話になるであろうか、指揮者の小沢征爾さんが海外の演奏旅行先で、偶然に作家の井上靖さんと初めて出会った時のことである。その頃、スランプに陥っていた小沢征爾さんは、井上靖さんが述べられた
「音楽は世界共通の芸術であるが、文学には言葉の壁がある」  
と言う作家としての切実な思いに感銘を受けて、往時のスランプを克服されたそうだ。

十八年前に、ぼくは『赤いブルー』という詩を書いた。英訳すると『Red Blue』になる。多分、誰が翻訳しても『赤いブルー』は『Red Blue』と英訳されるだろう。けれども、作者から一言いわせてもらえば、『赤いブルー』はあくまでも『赤いブルー』であって、『Red Blue』などではない。『Red Blue』ではこの詩のイメージが崩れてしまうからだ。

タイトルからしてこうであるから、本文ともなれば作者の意に反して、翻訳をする人の知性と感性に委ねるしかない。まるで子供を養子に出すような心境である。総てを育ての親に一任することになってしまう。そうかと言って翻訳することを拒むと、世界中の人々に読んでもらえない。もの書きにはこのようなジレンマがつきまとう。

スポーツの世界も、まったく壁がないと言ってもよい。日本でこつこつ努力してやって来たことが、そのまま世界で通用する。イチローも松井も日本のプロ野球でやっていたことが、そのままメジャーの桧舞台で、存分に活躍することができるのである。

それから、楽器の演奏やスポーツの実技には替え玉がきかない。だが、ものを書くことはゴーストライターが引き受けてくれる。タレントが次から次へと本を出版する理由(わけ)は、有名人の場合は、販売部数の皮算用が出来て採算ペースに乗る。よって、出版社ぐるみになってヤラセを企てるのである。

あんまり愚痴ってばかりいると家人から叱られるので、ボヤキもここいらで打ち切ることにしたい。

話は変わるが、恥ずかしながら、こんな無名のもの書きであっても、ファンレターの一つや二つは貰ったことがあるのだ。

僭越であるが、六年前に頂戴した思い出深い手紙を紹介させて頂く。その手紙にはぼくが書いた新聞の記事を切り抜いて、何度も読み返していますと書いてあった。仕舞には手垢で擦り切れてしまって、とうとう活字が見えなくなってしまったので、そのコピーをお送りくださいという内容の書簡を、新聞社経由で受け取った。差出し人は長期にわたって闘病生活を強いられている女性の方からである。

ぼくの書いたコラムがその人を励まし続け、更に勇気づけていたのかと思うと、熱いものが込み上げてきた。大病の苦しみは本人でなければ分からない。かつてこのぼくも、病に蝕まれて入退院を繰り返した経験がある。きっとその手紙の人物は、コラムの文脈に覗いていた示唆に、相通ずるものを発見したのだろう。

ぼくにはあらゆることで、弱い境涯にいる者の身の上になって、ものを書いていきたいという強い希望がある。

誰もが健康を願いそして祈る。けれども病気になった時の方こそ、聖書から学ばされる愛のフレーズによって、私たちの魂は血路を見出し、鷲のように翼を張って上ることができるのだ。「わたしは傷を持っている でも その傷のところから あなたのやさしさがしみこんでくる」(星野富弘)

クリスチャンは弱い時にこそ強いのである。どうかへりくだって、神様に総てを委ねようではありませんか。

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