2005年4月1日金曜日

第六十七回 宗教性の深さとは

毎日新聞のコラム『21世紀を読む』において、文化庁長官の河合隼雄さんが、「日本的な宗教性、生かそう」と題して論じていた。

その中で、上田 篤著の『神なき国ニッポン』(新潮社)から引用しながら、日本人が西洋に行って「あなたの宗教は何ですか」と問われて「わたしは無神論です」と答えたら、座が白けるということを取り上げている。そんなことを発言すれば、付き合ってくれないというのである。

欧米で無神論発言をすれば、確かに見縊られる可能性は十分にある。けれども、信心している宗教を問われて、特別に信じている宗教がないのであれば、平均的日本人は、大旨、一言「ノー」とだけ答えるであろう。神の存在を認めるか否定するかは、質問の次元が異なってくるのである。

従って上の文章は、日本人が西洋に行って「私は無神論者です」と答えたら、坐が白ける。と書き換えるのが正しいのではないだろうか。

河合氏の知己である欧米の心理学者たちは、しばらく日本に滞在しているうちに「日本人の宗教性の深さに感心した」と述べるものが多いらしい。河合氏はこの発言に矛盾を感じるという。どうして日本人が、どのような宗教を信じているかと問わずに、「宗教性の深さ」と表現しているところが示唆的であるという。

ぼくが思うには、多神教的環境で生まれ育ってきた日本人には、特定の宗教だけを信心することが、なかなか容易ではないのだと解している。例えば先祖伝来の宗教が真言宗であったとする。ご本尊が祀ってある総本山へお参りに赴く道すがら、路傍にお地蔵さんが立っていれば手を合わせて拝み、神社の前を通り掛かれば賽銭を投げつけ、大きな岩や滝に至るまで信仰の対象としてしまう。

この八百万の神が介入している日常に「宗教」ではなくして、「宗教性」というものを、河合氏の外国人の知己たちが察知していたのではないだろうか。

詮ずる所、日本人の宗教性なるものは、道徳であり、倫理であり、社交文化に甘んじているのではないだろうか。従って河合氏が語っているように「人間が人生の意味を考えはじめると、宗教性が大切になってくる」。この言葉が生きてくるのである。河合氏は、今後日本人は、これまで意識していなかった日本人の宗教性の意味をよく自覚して、それを新しい生活の中で、いかに生かしていくかを相当意識的に考えて、実行していくべきであると主張している。

けれども、僭越ながらぼくの所懐は違っている。もはや宗教性だけに依存するような時代背景に、私たちは生きていないからである。宗教性は日本人の文化の一つであることは否めないが、真実の神はただ一つである。いつまでもファジーな宗教性に嘱望するのではなく、福音に目覚めて賛美し始めると、新たな希望が見えてくる。

欧米では神の存在を首肯した上で、法律など、規律や個人の指針が設定されていく。だが、日本のインテリゲンチアは、神の上に自分たちの存在があるのである。従って「宗教性の深さ」という示唆的表現には、『神なき国ニッポン』に対する、配慮された比喩であったのではなかろうかと、ぼくは考える。

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