2005年6月1日水曜日

第七十一回 牛肉と詩

料理番組を見ていて感じたことであるが、料理を指導する先生も、アシスタントを務める女性アナウンサーも、出来上がった牛肉料理を試食した後で、

「ジューシーですね!」

と一様な称揚を発していた。少なくとも十年くらい前までは、「ジューシー」という言い方は一般的ではなかったように思う。

日本語に横文字が増えることの賛否はさておき、表現の仕方として、ジューシーだけではあまりにも機械的である。

「口の中で肉汁が広がって、お肉の旨味が……うんぬん」

と表現できないものだろうか。物が果物であれば、ジューシーだけでも種類によって頭の中で味覚を想像させることが出来る。例えばジューシーなオレンジ、ジューシーな葡萄といった具合に、ジューシーだけでオレンジの酸味、甘み、果汁が脳裏に満たされる。

現代人の表現力低下が叫ばれて久しいが、文章を省略することがあっても、文章を短縮すると無味乾燥な文面に陥ってしまう。ジューシーという横文字は、現代人にとって都合の良い表現方法なのかもしれないが、使い道を誤ると、安易な言い表し方としてしか伝わって来ない。

閑(しずか)さや岩に染み入る蝉の声(松尾芭蕉)

芭蕉の句を例に挙げるまでもないが、定型詩は省略の文学であって、表白の短縮ではない。わずか十七文字の世界に、どれだけの状況が広がりを見せることか。正に小宇宙と言われる所以である。

料理番組の続きであるが、日本人が高価な良質の霜降り牛を味わった時の第一声は、必ず

「やわらかい!」

と言って霜降り和牛を称賛する。その後に「美味しい」或いは「うまい」などの言葉が続く。

どうやら日本人は、舌の上でとろけるような柔らかい牛肉が美味しいものだと思っているらしい。

脂質は旨味の成分であるから、霜降りにして赤身肉と一体になることは、柔らかくて美味しい牛肉になることである。けれども、本来の肉汁の旨味というものは、歯応えのある良質の赤身肉を分厚く切って、野性的な醍醐味が溢れる調理方法によって味わうのが一番である。そして焼き方に工夫を凝らすと、ステーキの味が益々生きてくるのである。

先日、米国の詩人リチャード・エバハートの訃報が伝えられた。享年101。通信記事によると、彼が70年代に講演したスピーチの一部が同時に紹介されていた。

「詩は米国の自然なエネルギー源。米国が存在する限りこのエネルギーは絶えることがない」

況んや、詩は米国における自然なエネルギー源であると共に、詩は世界の自然なエネルギー源なのである。ぼくはむしろW・Hオーデンの次に記した警鐘こそが、アメリカの現実の姿であると思う。

「詩人が詩を書くより、芸術論を論じる方がお金になるとは、アメリカ文化の嘆かわしい姿である」

アメリカの優れた詩人の大半は、大学教授の立場で詩を書いている。リチャード・エバハートはノーベル賞詩人であるが、その功績が純粋に詩作だけを対象としていたかどうかは疑問である。ケンブリッジやハーバードといった学閥や、彼の思想や詩論などが充分に寄与しているに違いない。

エバハートはシュルレアリストであったが、その不連続な表現も、インテリゲンチャ故に是認される場合がある。少し言い過ぎた嫌いはあるが、詩を書くにもたくさんの過失があるように、ぼくの所思一端にも、たくさんの過失があるのである。

もう一つ、詩の話題がある。第39回『海は光れり』で詳しく書いているが、ロサンゼルスで活躍していた日系詩人、加川文一(1981年歿)の詩碑が、リトル東京のホンダプラザに建立されることが正式に決定した。除幕式は本年八月の予定。セカンド・ストリートを挟んで北側には杉原千畝氏のブロンズ像があり、南側に文一の詩碑『海は光れり』が建立される。

再び牛肉の話題に戻る。七、八年前に、チャーチメイトのアパートにお邪魔していた際、日本から電話が掛かってきた。アパートの主である友人が、深刻な面持ちで話し出した。そして突然大声を上げた。弟が自殺したとの知らせであった。

その友はショックのあまり気が鬱いでしまった。数日後、ぼくは彼を自宅に泊めて、心から一緒に祈った。その夜、家人と三人で食事をした。ぼくは友のために、心を込めてステーキを焼いた。材料はニンニク、オリーブ・オイル、塩と特製ブレンド粗挽き胡椒。

一口、ステーキを口に含んだ友は、

「うまい!」

ひとこと口走ってから、相好を崩した。ぼくは友の慰めの役に立てて、本当に良かったと思った。

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