2005年7月6日水曜日

名作アニメを鑑賞して

ウォルト・ディズニーが社運を懸けて制作した初めての長編アニメ映画、『白雪姫』のビデオを幼い娘と二人で鑑賞した。
継母のお妃が、醜い物売りの老婆に変身して白雪姫に毒りんごを勧める件(くだり)は、狡猾な長虫が、後にエバと名付けられる女を唆す『創世記』第三章の場面を彷彿とさせてくれた。そして物語が最高潮を迎える最後の場面では、死んだ筈の白雪姫が蘇って、皇子に迎えられて幸せになる。正に、イエス・キリストの復活の喜びと感動である。
アナハイムのディズニーランドへ行くと、『白雪姫』のミュージカルが上演されていたので、親子三人で最前列に鎮座して鑑賞した。テーマはお妃の嫉み(罪)と、問題の解決(愛)である。
この物語では、白雪姫の透き通るように美しい白い肌が象徴する「善」と、醜い物売りのお婆さんの姿を描いている黒装束が、「悪」を表現させている。この表現方法は、私たちにはまったく違和感の覚えない減り張りのある演出であった。けれども、広い会場には黒人の少女が数名いたが、彼女たちの心情は晴々としたハッピーエンドを迎えられたであろうかと、少しばかり心配になってきた。
白雪姫の髪の毛はブロンドではなく、艶やかな黒髪であることが強調されている。これはディズニー社が、初の長編アニメを制作するに当たって、メルティンポットの国で成功させるための配慮であったのかも知れない。そして人間の真の美しさとは外観で決定するものではなく、内面から滲み出る美しさ、即ち心の清らかさであることを昼食時に親子三人で話し合った。

丁度その折に、神様は私たちに粋な計らいを施してくださったのである。私たちのテーブルの近くを掃除していた黒人女性の名札を見ると、「SNOW」と書かれてあった。家内が、
「あなたのお名前ですか? 」
 と問い掛けると、彼女はゆっくりと頷いた。
「綺麗なお名前ですね! 」
 再び家内がそう言うと、彼女は優しく破顔一笑させた。その笑顔の何と美麗なことか。
飽く迄も憶測に過ぎないが、彼女は子供の時分に、肌の色に反して名前がスノーであったが為に、随分と揶揄されたに違いない。ところが現在の彼女は、自分の名前が非常に気に入っているようであった。自信に満ちた彼女の表情は、まるで微薫の花びらを撒き散らかすかのように誇らしげであった。私はここに神の愛があると思った。そして家族三人で過ごすことの出来た休日に、心から感謝したのである。
次に『フランダースの犬』のアニメ・ビデオを、やはり自宅で鑑賞した。私は童話集や絵本で、この物語を知っていたが、ビデオで観るのは初めてであった。
この物語は全篇を通して、十歳の少年ネロと八歳のガール・フレンド、アロアの、穢れのない白銀のように美しい心から、人を愛することの大切さと、神様から愛されているという確信が描かれている。
終結はハッピーエンドで幕を閉じる『白雪姫』とは対照的であるが、悲しくとも死は終わりではないことを、『フランダースの犬』のクライマックスでは鑑賞している者の心に強く訴えていた。
ネロは大聖堂で、念願のルーベンスの『キリスト昇架』と『キリスト降架』の二枚の絵を観ることが出来た。やがてネロは熱い歓喜の涙を流すと、
「神様、僕はもう思い残すことはありません」
 と呟く。ネロは両腕で犬の体を抱きしめると、
「ぼくたち、もうすぐイエス様に会えるんだよ。 …あそこで」
 と言う。このネロの最期の言葉こそが、信仰と希望と愛を伝えている。
『フランダースの犬』は、70年代にテレビで毎週放映されていたが、最終回は30パーセントの高視聴率を記録したそうである。幼い頃から聖書を読むことや、クリスチャンとの交流が希薄な日本人にとって、純真無垢なネロの神に信頼を寄せる心と、愛に忠実なパトラシエ(犬)の願いが、この世で成就されない不条理に、心を痛めるばかりである。けれども、知っていただきたい。神様の壮大な愛の計画を……
小説にしろ童話にせよ、外国の名作をより一層深く理解する為には、まず聖書を読むことが基本である。そして神のご愛が、同胞の心へと伝わってもらえたならば何よりも幸いである。

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