2005年8月1日月曜日

第七十五回 8日6日

広島原爆忌の八月六日、広島県代表の甲子園球児たちが、他校の生徒らに黙祷を提案すると、高野連の役員から制止されたという新聞記事(日本の七日付けの新聞)を読んだ。高野連には甲子園大会においての数々の規約があるに違いないが、その弁明が「原爆は広島だけのこと」というのである。これがもし本心からの釈明の辞であったとすれば、ぼくは心の底から身の毛が弥立つ。

広島や長崎が戦後六十年に亘って、核廃絶と原爆の恐ろしさを世界に向けて訴え続けて来たが、その真摯(しんし)な声は、海外は疎か国内でさえ十分に届いていない。また、日本国内においては、戦争体験そのものが風化の一途を辿るばかりである。喉もと過ぎれば熱さを忘れる。所詮、対岸の火事とでも思っているのか、広島と長崎の悲痛な叫びは、人類に痛痒(つうよう)を感じさせなくなりつつある。

将来、核戦争が起こりうるかとの問いに対して、米人も日本人も、約半数の人たちが核戦争は発生すると回答している。9.11の同時多発テロ後、アメリカ政府は国連の決議を無視して、イラクに対して武力行使をした。もしアメリカに、広島の原爆と同じ規模のアタックが発生したならば、アメリカ政府は冷静且つ沈着に対処することが出来るであろうか。一事が万事である。ぼくは9.11のテロ以来、アメリカ政府の真意を垣間見たような気持ちに陥り、一頃どこへ赴いても妖気が漂っていた。

一昨日、羅府新報の一面に『広島忌』の題でコラムを書いた。仕事の合間に執筆をしながら、締め切り寸前になって原稿を送信したのであるが、今朝になってテレビのニュースを見ていたら、広島の原爆記念日の話題が流れていた。NHKのアナウンサーは、午前八時十五分に広島に原爆が投下されたと語っている。ぼくは自分のコラムに八時四十五分と書いている。「しまった!」。すでに時は遅しだ。

原爆投下の時刻は、インターネットで検索をして確かめた。にも拘らず間違えてしまった。原因は、たまたま検索したページの記述に誤りがあった為である。PCが普及するまで、調査が必要な際には周辺の蔵書で調べた。それでも分からなかったり疑問が生じた場合は、近隣の図書館に出向いたり、新聞社や関連の団体に問い合わせて確認していた。

いやはや、まったく困ったものである。ホームページは過誤が多いので、全面的に信用できない。そのPC自体も、まだまだ不完全ではないか。ぼくは毎日お世話になっている未熟なワードのソフトに、手を焼いている始末である。

原爆記念日のきょう、義理の叔母の告別式がダウンタウンの福井葬儀社であった。享年七十七。渡米後しばらくしてから夫と死別、女手一つで三人の子供を育てた。晩年はパーキンソン病に苦しみ、二年ほど前から寝たきりの生活を送っていた。若い時分のニックネームはミス沖縄。優しくて、誰からも愛された春子叔母さん。何から何まで、大変お世話になった。心から、有り難うございました。

夕刻、間もなく四歳になる娘のジョイと、『美女と野獣』を鑑賞した。この一週間で、ジョイは飽きもせずに二十回以上も、同じビデオに首っ丈である。そういうぼくも、四回目の鑑賞をしたのだから、まんざらでもない。

近ごろ年のせいか、随分と涙もろくなった。ぼくは『美女と野獣』のストーリーに、大層感動してしまったのである。四回とも自然と目頭が熱くなってきて涙が滲み出た。バックに流れる主題歌の曲も歌詞も素晴らしい。この物語は、それぞれが愛する者のために、自分を犠牲にしようとする無償の愛が描かれている。そして真実の愛との出会いは、外観に惑わされないで、偽りのない心に芽生えるインスピレーションの導き。

ビデオを観終わってから、決ってジョイは、ぼくに野獣になってくれと言ってせがむ。しばらくの間、ジョイと一緒に美女と野獣ごっこに興じる。ジョイはすっかり美女のベルに成り切ってダンスを披露してくれる。ぼくは野獣になって雄叫びを上げた。

就寝前に、ジョイがバスタブの中で遊んでいる間を見計らって、書きかけの原稿を一気に仕上げた。締め切り(日本の午後一時半)までに原稿を東京へ送信しなければならない。若い時分にはこんなことはしなかったが、最近、締め切り寸前になってから原稿を書き始めることがある。要するに忘れっぽくなっただけである。

午後九時半、絵本を一つジョイに読み聞かせてから、いつものように、ジョイと向かい合って祈った。日々、お祈りが上手になってゆくジョイ。このところママは夜勤が続いているので、ぼくはママの代役を努めなければならない。

そして、一日の終わりの儀式。ジョイはぼくの顔を見詰めてから、三つ指をついてお辞儀をした。

「お父様、お休みなさいませ」

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