何年か前に、すしバーに座って一杯やっていたら、板前さんから
「新井さんは在日ですか? 」
と出し抜けに問われたので、寸刻、「はぁ 」と思いきや、酒が入った勢いにまかして、
「そうでんねん。やっぱし分かりまっか、実家は鶴橋(大阪)でキムチ売ってまんねん。斜め向かいが和田アキ子の生家だんがな」
少しふざけてしまった。板前さんは、自分は在日韓国人であると言った。板前さんの話によると、新井という姓には在日が多いという。
ぼくの父は埼玉の出身で、埼玉県には新井の姓が多いと聞く。ともあれ、祖先を辿っていけば、アジア大陸の民族の血が混じっているに違いない。けれども、日本で生れても、両親が韓国籍のために、在日韓国人として差別待遇を経験してきた板前さんにとっては、さぞ深刻な問題であるのだろう。
やはり何年か前に読んだ雑誌に、こんなのとが書いてあった。場所は、とある焼き鳥屋、口の悪い店の主が、一人で焼き場を切り盛りしている。やがて店が混んで来て忙しくなってくると、親爺の毒舌が店内を飛び交うようになる。親爺の口癖は「この朝鮮野郎」、「朝鮮人」といって客を罵倒することである。
ある日、初めての客がカウンターに座って、要領が分からなくてもたついていたので、親爺から早速「そこの朝鮮野郎」と怒鳴られた。その客は料理が出てくるまでに散々「朝鮮」、「朝鮮」となじられたので、いたたまらなくなって席を立った。そして店を出る間際に、その客はひとこと捨て台詞を吐いた。
「親爺、俺が朝鮮人でなくてよかったな」
日本の某県民は、純粋で正直な心の人が多いので、嘘をつくことをしない。と教えてくれたある教会の長老がいた。それにはぼくも同調した。言い換えれば口下手で、べんちゃら一つ言えない。腹で考えていることを、ストレートに口に出す傾向がある。実はぼくの細君も某県出身である。
細君と娘と三人で、家の近所にある中華料理店で食事をしていた際に、某県出身と思わしき初老の婦人二人が、ぼくたちのテーブルに近づいて来た。先ず彼女たちは、娘のことをかわいいと言いながら褒め始めた。しばらく話しを続けてから、ぼくたちに背を向けたかどうかといった帰り際に、二人は顔を見合わせて大きな声でほざきよった。
「この子、全然両親に似てないじゃないの!」
確かにおっしゃる通りなのだが、土足で団欒の席に介入しておいて、かりそめの他人に対して、別れ際にこのような捨て台詞を発するのは非常識極まりない。細君は婦人たちの方言を耳にしたので、直ちに自分と同じ県の出身であることを察知したらしい。
「純粋、正直。いゃー 結構なことで、けれども、他人の心を平気で傷つけているのだ」
ぼくが某県民を批判すると、
「県民ではなくて、人によるわ」
細君が横槍を入れた。愛県精神があるらしい。
「君だって大阪人の悪口を言うじゃないか」
ぼくも負けじと応戦した。
先般、知り合いの初老の婦人から聞いた話しである。大枚四万ドルを支払って、中国から養女を迎え入れたある夫婦に対して、彼らの周辺の者たちは異口同音に、子供のことをかわいいと言って褒めちぎるのだそうだ。ところが陰では、目尻を二本の指で吊り上げる格好をしながら、
「狐の目みたいな赤ちゃんよ、全然かわいくないの。四万ドルだって」
巷で低俗な噂を広げている。
いやはや、陰口はよろしくない。ストレートに「両親とまったく似ていない」と言ってくれる方が、むしろ気持ちがいい。ぼくのところも養女なので、両親と顔が似ていなくて当然である。やっぱり純粋で正直な某県人は心優しき方たちばかりだ。本サイトの教会にも某県出身の方がたくさんおられるので、最後はこのように「締めくくらんと、しゃーないやろ」
けれども、血の繋がりがなくても、ぼくや細君の顔に本当に似てくるから摩訶不思議である。教会の皆さんも、「そっくりよ」とおっしゃってくださる。それはお世辞などではない。イエスキリストの名によって授かった娘は、肉や血の繋がり以上に、尊い絆で結ばれているのだ。
ぼくは感謝を込めて、大声で叫びたい、「全てがハレルヤ!」
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