♪ ギッチョンチョン ギッチョンチョン 丸い玉子も切りよで四角 ギッチョンチョン ギッチョンチョン ものも言いよぅで角が立つ オヤマカドッコイ ドッコイナー ギッチヨンチョン ギッチョンチョン
♪ 四角い部屋も掃きよで円い ギッチョンチョン ギッチョンチョン ものも言いよぅでまるくなる。
ぼくが子供の頃に、祖母の友達がよく唄っていた都々逸だが、二番は、ぼくが小学校六年の時の作である。
言葉が生きていれば小人でも軽々と運べるのだが、言葉が死んでいれば、どんな巨人だってまともに起すこともできない。このようなことを語ったのはドイツの詩人ハイネである。
人を生かすも殺すも、短い言葉一つで十分である。日頃、何気なく発した言葉で相手の心情を深く傷つけたり、他者の言葉に自分がひどく傷つくことがある。言葉は生きているのだ。
日本の若人たちの間では、欧米並みに個人主義が浸透してきているせいか、周囲の者に対して気くばりができなくなってしまった。また、言葉の中に他者を思いやる情が響いてこない。
量販店に於ける接客時の言葉のマニアル化は、企業本位の資本家優遇のマニアルであって、顧客への配慮が欠落している無味乾燥とした言葉の羅列である。日本は古来より「言霊の幸ふ国」(ことだま-の-さきはう-くに)と語り継がれてきた。どういうことかと言うと、言霊の霊妙な働きによって、幸福をもたらす国であるというのだ。万葉集に「言霊の幸ふ国と語りつぎ言ひつがひけり」と記されている。
言霊とは言葉に宿っている不可思議な霊威のこと。マニアルで叩き込まれた「言葉に管理されている」接客態度では、言霊は宿らない。言霊が芽生えるためには、敏速な気くばりと気転を活かしながら、臨機応変に言葉を配列することである。一番大切なことは、思いやり溢れる優しい心であることだ。
先日、郵便局の長い列に並んで50分程待たされた。金曜日の夕刻、郵便局員たちも疲れた表情で対応に追われていた。ぼくの順番が回って来たので一番奥の窓口へ向かうと、白人の女性局員が爽やかな笑顔で、ぼくに労いの言葉をかけてきたのである。口もとから皓歯と一緒に零れる彼女の思いやり溢れる言葉に、ぼくは50分間のストレスがあまねく癒されてしまった。
ぼくはすっかり気分を良くしてしまって、足取りも軽やかに帰ろうとしたのだが、暫らくの間、柱の陰に佇みながら彼女の対応振りに耳を傾けていた。すると、どうだろう、彼女は状況や相手の年齢、性別、風貌などからいち早く判断して、機知に富だ言葉(わだい)を投じるのである。長い間待たされてうんざりしていたであろう男性は笑い出すし、その次の二人の子供を連れた母親は、小さな歓声を上げる始末。正に言霊に満ちた会話の妙技である。
さて、子供は親に躾をされて育つのだが、幼少の頃に「ありがとう」と言いなさい、「おはようございます」は、「ごめんなさい」は、と両親から美しい日本語の使い方を教えてもらったにも拘わらず、成長するに従って、ありがとうを「どうも」ですませ、ごめんなさいを「すみません」と言う。「おはようございます」に関しては、最初の「お」と最後の「す」だけはよく聞こえるが、間はもやもやとして言葉を濁してしまっている。
言葉使いは習慣になるので、父親と母親が朝の挨拶を交わさなかったり、お茶を入れてもらっても、父親が母親に「ありがとう」を言わなければ、いくら子供に厳しく諭してみた所で、思うような成果は期待しかねる。
身が美しいと書いて「躾」と読む、子供は両親の背中を見て育つからには、まず両親が美しい身をもって、言葉を吟味しなければならない。それほど言葉は神聖なものなのである。新約聖書の『ヨハネによる福音書』第一章には以下のことが記されている。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 (中略) そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことに満ちていた」
ぼくは幼児期に覚え始めてしまう美しい日本語が大好きだ。
「はい」、「ありがとう」、「ごめんなさい」、「おはようございます」、「こんにちは」、「おやすみなさい」、「さようなら」、これら、七つの言葉ちゃんが、大人になるとどうして素直な気持ちとなって、心の底から溢れ出ないのだろうか。独りになって目を閉じて、これらの言葉ちゃんを発する時、何だかわが身とわが心が洗われるようで、魂と肉体が寸刻、光を放つ。やっぱり、初めに言葉ちゃんがあったのだ。
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