私は坂路が続くモンマルトルの石畳を歩きながら、ふと、余り知られていない中也とキリスト教の係わりについて、本欄に書いてみたら読者の興味を引くのではないだろうかと、とりどりの思惟を巡らしながら、最寄りのラマルク・コーランクールの駅まで歩いた。
中也の年譜を見ると、母福は叔父中原政熊の養女で、政熊夫妻はカトリック信徒であったことと、中也が23歳(1930)の時に、京都、奈良で遊んだ折に、ビリオン神父を訪ねたことが記されてある。また、中也とキリスト教の繋がりを深く考察している書物は稀有である。
中也が親友の安原喜弘に捧げた詩『羊の歌』は三部構成からなっているが、ここで第一章の『祈り』を紹介したい。
死の時には私が仰向かんことを! この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを! それよ、私は私が感じ得なかったことのために、 罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。 あゝ、その時私の仰向かんことを! せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを! | | |
さて、この『祈り』の詩は、神は信じたがキリスト教徒にはならなかった中也の底意を吐露させたものである。中也はこの世に生きて、「事象物象に神秘を感じる」と断言しているように、西欧ロマン主義に憧憬を懐いて入信したが、その後、文学的懐疑精神から、ことごとく信仰を放棄してしまった戦前の詩人や作家たちとは、あまりにも大きな隔たりがあった。限りなく純真な心であった中也は、『詩』という自己の心が最も弾む表現方法で、随時、真っ向から神と対峙していたからである。自分の直感では察知できなかった真理を、死の直前までには悟りたいと願望するなかで、一方では、頑なに心を鎖している罪の報酬が死であることを認めていた。中也は神に『祈り』の声を上げて切願するが、神と中也の間に閉ざされていた扉に、ノブが付いているのは中也の側だけであった。
中也は『羊の歌』を発表した前年にビリオン神父を訪ねているが、同年の『白痴群』廃刊号に、次に記した『つみびとの歌』を発表している。
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| わが生は、下手な植木師らに あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ! 由来わが血の大方は 頭にのぼり 煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。 おちつきがなく、あせり心地に、 つねに外界に索(もと)めんとする。 その行ひは愚かで、 その考えは分ち難い。 かくてこのあはれなる木は、 粗硬な樹皮を、風と空に、 心はたえず、追惜のおもひに沈み、 懶儒(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、 人にむかつては心弱く、諂ひがちに、かくて われにもない、愚事のかぎりを仕出来してしまふ。 | |
また、中学時代の親友、中村吉郎の証言によって、往時の中也の愛読書がダンテの『神曲』であったことが判明している。14世紀イタリアの詩聖、ダンテ・アリギエリ(1265~1321)の長編抒情詩に貫かれた「神の愛」を、少年中也はどのように捉えて絶対者を直感していたのだろうか。中也は、神の意思にかなった者だけに許された「至高エムピレオ」の登攀を、「死の時には私が仰向かんことを!」と、神に向かって必死に祈ったのだ。
1931年、中也が安原喜弘に宛てた書簡を見ると、ジョゼフ・ケッセルの『清き心』(序文)を書き写して送っている。
「いかなる本能も、もしそこに一点の混り気だにとどめぬ時は、何人の心にも讃美の情を起さずには置かない所の強くして純真無垢なる何者かを常にもっている。その仲には我等人間のいかに洗練されたる感情にあって得難くして、ただ動物や植物のみが有する所のあの清純さがある」
私は中也の性質を論ずる場合に、この序文に書かれた崇高な潔癖性を避けて通ることはできないと思っている。このあまりにも清楚な人生観が、神と中也の間に深い溝を作り、中也は祈りと退行のなかで葛藤していたに違いない。
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