1981年に関西書院から上梓された『大阪文学散歩』に、私は椎名麟三の創作『美しい女』の解題と、その小説の舞台となっている山陽電鉄沿線について、散歩のガイド的役割を果たす小文を綴っている。
土曜日の午後、書庫の整頓をしている際に、ふと、その本に目が留まり、頁を捲っているうちに、麟三のことについて、一つ本紙に書いてみようかという強い思いに駆られた。
明治四十四年、兵庫県に生まれた椎名麟三は、中学を中途退学して、家出し、マッチ工場の工員、飲食店の出前持ち、見習いコックなどの職を転々として、山陽電鉄の運転手となった。やがて、非合法共産党のリーダーになり、昭和六年に逮捕されて獄中『聖書』を読み、キリストの復活を信じて、ドストエフスキーによって文学的に開眼する。
麟三について語る折に、必ず引例されるのがドストエフスキーの『悪霊』の中での、キリーロフとスタヴローギンとの対話である。キリーロフは「人間はすべてが許されている」と喝破した。その言葉を追究してスタヴローギンが「では、少女を強姦したり、赤ん坊の脳味噌をたたきわってもいいのかね」と尋ねる。その質問を受けてキリーロフは「そのことを含めて人間にはすべてが許されている」と答えてから、「しかしそのことを本当に知っている人間は、そのようなことはしないだろう」と切り返す。
麟三はキリーロフが切り返した言葉に、深い感銘を覚えるのと同時に、これほどおかしな辻褄のあわない言葉はないと、懊悩(おうのう)を抱きつづけた。 麟三は「すべてが許されている本当に知っている人間は、少女を強姦したり、赤ん坊の脳味噌をたたきわったり(するなんて平気だろう)というのであれば話がわかるが、そのようなことは(しないだろう)なんていうことは、どうしてもわからない」と語っている。
麟三は「すべてを許されている本当に知っている人間」が「そうする」ではなく「そうしないだろう」と転換する点に実はキリストが立っているのであり、このような転換はキリストにおいてだけ可能なのだと知ったのは、ずっと後のことであった」と述べている。
しかしながら、私と麟三との考察には見解の相違があるのである。松本鶴雄さんは『美しい女』の解説で、「人間にはすべてが許されている」「それを真に知る」ということと「その者は何もしないだろう」という矛盾の間に『美しい女』の<知っているが故にそうしない男の物語>平凡な日常性が光り輝いて横たわっている。と、思索している。
また、佐古純一郎さんは『私の聖書物語』の解説で、麟三はドストエフスキーから、「すべてが許されている本当に知っている人間は、そのようなことはしないだろう」という、「公案」を与えられたのだとして終結している。
麟三は「すべてが許されている本当に知っている人間は」と「そのようなことはしないだろう」との間には、理性ではどうにも埋めようのない断絶があるのだと道破した。
それではここで、ドストエフスキーの『悪霊』の主題と、キリーロフとスタヴローギンの対話の意図について、私の見解を述べさせていただく。
先ず、小説のタイトルは、悪霊にとり憑かれた豚が湖で溺れ死んだと記述のある、『ルカによる福音書』第8章33節に由来している。
人神論者のキリーロフは革命的秘密結社「五人組」の一人であったが、仲間の罠にはめられて自殺に追いやられる。スタヴローギンは組織を背後で誘導する悪霊の巨魁的存在である。結論から先に述べると、ドストエフスキーは、無神論的革命論理が悪霊だと定義付けしている。また無神論者の革命が失敗に終わることを、ドストエフスキーは預言していた。
よってキリーロフとスタヴローギンの対話は、人神論者と悪魔的超人の対決が綴られているのである。従ってこの時点においては、キリストの介入を見いだす複線は一切含まれていない。むしろ祖国の国民性と信仰の喪失を憂いたドストエフスキーの長編のテーマに、キリストが立って、深く根差しているのである。
麟三が文学への目を開かれたのは、正確にはドストエフスキーの『悪霊』であった。その後、直ぐにキェルケゴールを読んで実存主義者となり、洗礼を受けたのは麟三が39歳(1950年)の時の、クリスマスであった。
文学も哲学も、そしてキリスト者としても、まだ駆け出しの時分であった麟三には、主観的な思惟ばかりが専行してしまって、事の本質を洞察する出力が、一時的に欠落してしまっていたに違いない。麟三は後々になって「このような転換はキリストにだけ可能である」と帰趨しているが、この帰結は、キリーロフとスタヴローギンの対話の部分だけが一人歩きしてしまって、小説(『悪霊』)との関連を全く眼中に置いていない。
麟三は1970年に、ドストエフスキーの『悪霊』を脚色した戯曲を『早稲田文学』に発表しているが、私は、うかつにもまだ読んでいなかった。今年は椎名麟三が没してから30年目を迎える年にあたるが、その記念として、麟三が描いた『悪霊』の世界を存分に味わってみようかと思っている。新たな発見を期待しつつ。
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