2003年11月4日火曜日

第三十三回 秋の暮れに想う

ハロウィンが終わると、いよいよ南カリフォルニアにも秋寂(あきさ)ぶの季節の到来である。ぼくがまだ日本にいた頃、母はかねてからのぼくの希望を呑んで、庭先に金木犀の株を植えてくれた。

毎年秋には橙黄(とうこう)色の小花が満開になり、黄昏どきになると身も心も意気地なしにされてしまいそうな甘い芳香が、窓の隙間から冷やかな風に乗って忍び込んでくる。

金木犀の香りは、ぼくのささくれていた心を、のべつもの悲しくさせていた。そんな哀愁に抱かれながらも、ぼくは独りでもの思いに耽ることが妙に好きでたまらなかった。

あの頃のぼくは昼間から窓辺の安楽椅子に腰を深く沈めて、片っ端から色んな本を読み漁っていた。そして気が向けば、ふいっと立ち上がって机の前の椅子に座すると、原稿用紙に詩を書きちらかした。

ぼくは渡米する前に、エセーニンの詩集を何度も繰り返して読んでいた。もう22年も前のことであるが、とりわけ『母の手紙』(内村剛介訳)の中のリフレインの一節は、今でも暗誦することができるくらいだ。

お前さんが詩人だってことが、
よくない評判立てながら
いい気になっていることが、
わたしは ひどく 気にさわる。
ちっちゃいうちから
鋤鍬とって
野良仕事でもしていたほうが
よっぽど ましになっていたはず。

たしか、渡米して二年目の秋だったと思う。日本にいる母から手紙が届いた。ぼくはその手紙の一節が、未だに脳裏に執着していて忘れることが出来ない。

今年も金木犀が満開です。
アメリカにいる主(あるじ)のもとへ
とどけとばかりに
夕暮れの植え込みで
ひとり
馥郁と媚びています。

手紙を読みながらぼくは思った。母は詩人だったのかと。それから何年かが経って、父と母がようやく重い腰を上げた。二人揃ってロサンゼルスにやって来たのだ。二人とも初めての海外旅行であったが、父にとっては、これが最初で最後の海外旅行となってしまった。

翌年、1987年8月1日、父は肝硬変で不帰の客となった。享年73、母はその時65歳であった。ぼくは一身上の都合で帰国することが出来なかった。その理由をここに書くと大層長くなってしまうので、いつか改めて書くことにしたい。

ぼくは逸早く、母に鎮魂の詩を書いて送った。この詩は、後に大学時代の文芸部の後輩である綛山正行君が、彼が主宰している詩の同人誌『双想』に載せてくれた。

鎮魂歌

ぼくは祈った

母が救われた

今 片翼だけのつばさは
いつになく力強い

父よ
最後までぼくを信じてくれた

まだまだ試練は続くけれど
愛されている

父よ
みんな
みんな
主に愛されているのです

父が逝ってしまってから16年の歳月が流れた。ぼくは父が亡くなる一週間ほど前に、父と国際電話で短く話をしたことを憶えている。
「何事においても、油断は禁物だぞ」
これは、父がぼくに語った最後のことばである。既に体力が衰えていた父であったが、線の細い声を震わせながら、弱々しい声音(こわね)を振り絞って、ぼくに諭すように語っていた。

父の意に反して、
ぼくの人生は失敗の連続なのです。
ねぇ、天国のお父さん。
ぼくは信仰によって歩むことを知っています。
そして必ず勝利者となって、あなたの下へ凱旋するために、
ぼくはきょうも力強く生きています。
そう、鷲のように翼を張って
ぼくは生きているのです。

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