2004年10月15日金曜日

第五十六回 言葉の重み

先日、或る聖会で、その会場となっている教会の牧師が司会を担当されていた。ゲスト・スピーカーの説教が終わって、最後に、司会者がこの日のために語られたメッセージの意義の深さを、聴衆にアピールされた。それから、司会者は結びの言葉として、
「本日の○○先生の説教を受け入れられない者は ・ ・ ・ 」
少し間を置いてから、ぼくには司会者が言葉を選んでいるようにも見えたが、
「バカです」
と、はっきり言い切って空笑いした。  日頃、キリスト教の説教を聴いているクリスチャンにとっては、容易に理解できるメッセージであった。けれども、会場にはノンクリスチャンの方々もおられたし、聖書を一度も読んだことのない者や、求道中の方々がいらっしゃった。いくら有り難い話だからといって、共感できない者は「バカです」と決め付けてしまうのは、随分と驕慢な発言ではないだろうか。

言葉というものは、その一言で、今までの信頼関係がひっくり返ってしまうほど大きな力を持っている。人の心はそれだけセンシティブである。牧師になるためには、まず神学校へ通うことになるのだろうが、神学の研学も肝要であるが、同等に、牧会には如才無さが必須であると思う。

小学生の折に、ぼくは担任の先生から、ことあるごとに言葉で心を傷つけられたことがある。友達と比較されて、「新井でさえ出来るぞ」と、先生に睨まれた。「おまえにしては上出来だ」、「おまえの描いた絵はけっさくだな」、「学校に何しに来た」等、今でもその教師の顔と言動が脳裏に甦ることがある。担任の教師はクラスの秀才ばかりを贔屓にする 。ぼくのような劣等生はどうでもよかったのだ。

高校生になってから、小学校の同窓会をやろうということになった。ぼくは打ち合わせをするために、往時五 、六年の担任であった、あの、苦々しい先生に前以て会わなければならなかった。

放課後、ぼくは小学校を訪ねてみた。ぼくは先生に背中でも叩かれて、挨拶代わりに、活でも入れられる羽目になることだろうと、てっきり思っていた。ところが、職員室から出てきた先生は、やけにおとなしくて、ぼくを丁重にもてなしてくれた。先生は腰を前に少しかがめて、商人(あきんど)のように手もみをしながら、ぼくのことを「新井さん」と呼んでは、ぺこぺこしているのである。そして、ぼくに対する話し言葉は終始敬語であった。

ぼくはすっかり興醒めてしまって、同窓会の幹事を辞退した。やがて同窓会は流れてしまったが、気心の知れた同窓生たちと喫茶店で折り合って談笑した。

地獄耳の友人が、ぼくにこっそりと教えてくれたのだが、ぼくが同窓会の打ち合わせをするために小学校へ赴いた際、先生はてっきり「お礼参り」でもされるものだと思っていたらしい。そういえばあの時、学生服にサングラスを掛けて小学校まで出向いて行った。ぼくの身長は既に180センチを超えていたし、体重も85キロに達していた。きっと先生はビビっていたのだろう。

ぼくは情けない先生の態度に甚だ失望してしまった。むしろ昔のように、ぼくのことを批難する先生であってくれる方が、ぼく自身の気持ちがさっぱりとしていたことだろう。

次に、何年か前のことであるが、知己の家庭集会に、日本から或る教会の長老が招かれていた。ぼくは中学生の時分から、ずっと登校拒否を続けている二十歳の青年と一緒に、その集会に参加していた。青年はアメリカで、ぼくの家に滞在しながら約二ヶ月間、生活習慣改善のための癒しと、トレーニングに励んでいた。

集会の途中で、長老が現代の若者像について言及された折に、ぼくと一緒に参加していた青年を名指しして、「君は突っ張っている口かね」と、語勢を強められた。

突発的な長老の発言に対して、ぼくも青年も面食らってしまった。続けて長老の話を聴いてみると、どうやら青年の髪の毛が茶髪であることが気に入らないらしい。

けれども、考えてみると随分と無礼千万な話だ。まだ面識のない者をつかまえて、会衆の前で「突っ張り」呼ばわりされるのだから。現代っ子にとって、茶髪はファッションの一つである。今やごく普通の子でさえ、髪の毛を茶色に染めるご時世なのである。

長老には名誉○○、会長、理事長の肩書きがある。そして、周りからは先生と呼ばれて尊敬されている。今更ながらつくづくと感じ入ったことだが、人々の上に立つ者ほど、努めて言葉というものを吟味して話をする必要がある。

聖書には詩書と呼ばれている箇所が幾つかある。詩は省略の文学でもある。言葉を選び、省略して推敲する。より吟味された言葉は、美しい詩となり箴言となる。また、キリストのたとえ話は、詩のように美しく語られている。

ドイツの詩人ハイネは述べている。言葉が生きていれば小人でも軽々と運べるのだが、言葉が死んでいれば、どんな巨人だってまともに起こすこともできない。

このように言葉というものには、人の心を左右する計り知れない重みが宿っているのである。

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