最近、三歳になったばかりの娘が絵画教室に通い始めた。毎週土曜日の午後に、家人が同行することになっている。先週末は家族でサンノゼに赴いていたので、絵のクラスは休んだ。その代替として、平日の午後に、ぼくが娘を絵画教室に連れて行った 。 約一時間、娘の絵のクラスが終わるまで、ぼくは隣の部屋で、携帯していた作家の陳 舜臣さんのエッセイを読みながら時間をつぶした。
陳さんはエッセイの中で、料理人のことについて言及しておられたが、ぼくは彼の主張に同調したり異論を唱えたりしながら、しばしの読書を楽しんだ。
陳さんは、「おやじは偏屈だが、おいしいんだよ」と言われながら連れて行かれる店は、たいていまずいと断じている。客がぺこぺこして、「食べさせていただいています」といったふうに有り難がって箸をとっている店は、まず例外なく箸にも棒にもかからないまずい店であると言う。これは鉄則といってよい。と陳さんは語勢を強めていた。
実は、この手の店はぼくも苦手である。陳さんは、このような店はたいていまずい、と述べておられるが、ぼくの経験からして、まずいとは思わないが、その殆どが噂ほどにはうまくない店ばかりである。
LA界隈にも、「黙って食え、がたがた言う奴は、とっととけぃれ」式のすしバーが何軒かあるようだ。数年前に、WLAで評判高いすしバーに四人で入ったことがある。全員が初めての店であったので、システムがよく分からない。ウェイトレスが早口で説明するところによると、すしバーは「お任せ」のみであることが分かった。
ぼくたちは四人がけのテーブルに座って、それぞれが好きなネタを注文した。そして最後に味噌汁をオーダーした。すると、瞬く間にウェイトレスは不機嫌な顔つきになって、
「そんなものは置いていません。以上でよろしいですか」
事務的に、かつ無愛想に語気を強めて、さっさと厨房の中へと消えた。この店は有名人がよく訪れるらしく、繁盛もしているので、日頃、高額のチップを貰っているウェイトレスにとっては、ぼくたちはお呼びでない客であったのだろう。
確かに鮨と味噌汁は味覚が合わない。アメリカのすしバーでは、どうして赤出しを置かないのだろうかと、不思議に思うことがある。関西では鮨で一杯やった締めくくりに、赤出しは定番である。八丁味噌には、魚の粗かアサリの具が最も相性が合う。
次に、陳さんは、名料理人は謙虚であると道破している。名人になれる最低の条件は謙虚であることだ。と言うのである。料理人がふんぞり返って、客が小さくなって食べているような店で、「これはうまくない」とでも言おうものなら、蹴飛ばされて、包丁を持って追いかけられるかもしれない。けれども、謙虚な料理人なら客に謝り、率直な批評に耳を傾けるだろうと言うのである。そして、その料理人の料理は、そこでまた向上するのである。
有能な料理人は相違なく謙虚である。しかし、超一級の料理人が必ずしも謙譲であるとは限らない。とぼくは思っている。これは料理の分野に限ったことではない。芸術や学問 、スポーツの世界にも通じることである。どうやら人間には、その道の一流の人材には、謙虚であってもらいたいという美徳を御仕着せたがる傾向があるようだ。
謙遜は、凡人にとっては単なる誠実であるが、偉大な才能を持つ人間の場合には偽善である。このようなことを語ったのはシェイクスピアである。謙遜を装うことは、処世訓の一つであるのだろう。けれども、謙遜の装い方いかんによっては、高慢に陥ってしまうということである。
先般、帰国した折に、かつて行きつけにしていた焼鳥屋を覗いてみた。相変わらず偏屈なおやじが、一人で切り盛りしている。十年振りに訪れたというのに、おやじはそっぽを向いたまま挨拶もしてくれない。カウンターに腰をかけてしばらく経ってから、
「なんや、帰ってきたんかいな」
おやじがぼそりと呟いた。そして語気を強めて、
「すまんなぁ、白肝は全部売切れや」
そう言ってから、おやじは白肝三人分が載っている皿を、ぼくの前に差し出した。
ぼくの隣席には、珍味中の珍味である白肝を目当てに、何ヶ月も待たされて、ようやく在り付こうとしていた三人の常連客が、寸前でお預けを食らってしまった。ぼくは大変申し訳ないことになってしまったと思ったが、おやじのやることに不服を唱える者は、ここには誰もいない。
これが偏屈なおやじの、精一杯の歓迎の手立てであった。ぼくはおやじの夕げのおかずにとでも思い、土産代わりに持参した刺身を手渡した。それから店を出るまで、おやじとは言葉を交わすことはなかった。
大阪の私鉄沿線、駅前にあるバラック建ての小さな焼鳥屋。
「おやじは偏屈やけど、うまいんだよな」
教会においても、
「牧師は偏屈だけど、説教は光一(ぴかいち)なんだ」
大衆の心を惹きつける、一本気な牧会があっても良いのではないか。
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