2004年11月1日月曜日

第五十七回 意義深いこと

日本のテレビ局が制作した番組で、京都の先斗町(ぽんとちょう)界隈の小料理屋を紹介する番組があった。案内人は、女優の星由利子さんが担当されていた。この番組の中で、女性のナレーターが、先斗町(ぽんとちょう)のことを、終始 「せんどうちょう 」と読み間違えていた。制作スタッフはこの番組が全国へ向けて一斉に放映されるまで、誰一人として、肝心要の地名の誤りに気が付かなかったのである。
当地、ロサンゼルスには100年の歴史と伝統を誇る邦字(バイリンガル)新聞、『羅府新報』がある。この新聞社は人手不足から、度々初歩的なミスをしでかしてしまう。例えば一面の大きな見出しが「天皇陸下」と印刷されてあった。言うまでもなく正しくは「天皇陛下」である。気が付いた読者は、さぞ驚いたことであろう。

仕事のミスは誰にでもある。ぼくも他人のことをとやかく言える者ではない。原稿を書くのに、パソコンのキーボードを叩くようになってから、つい、文字を変換することを忘れてしまうことがあった。原稿をEメールで送信して、編集人の目が殆ど通らない時などに、よく誤植が発生する。

コラムが掲載された新聞を見て、ぼくは赤面してしまった。「三位一体」を「三味一体」と書き損じていたのである。いやはや、汗顔の至りであった。

文豪にも同じような過ちがある。島崎藤村が未知の少年から、「達」という字の間違いを指摘されて、面目を失ったことがある。藤村は少年から教えられるまで、字の間違いにはまったく気が付かなかったそうだ。

かなり昔の話で恐縮だが、高校生の時分、現代国語の時間に、教師が黒板に「石川豚木」と書いたので大笑いとなったことがある。先生は顔面を真っ赤にして、直ちに「啄木」と書き直した。

余談になるが、近頃の子供たちは島崎藤村のことを「しまざきふじむら」と読む者が増えた。学力の低下が叫ばれて久しいが、大学を出た若い編集者でさえも、国語力の低下が随分と目立つようになってきた。

司馬遼太郎さんの、確か『街道をゆく』という紀行文であったと記憶しているが、ぼくはその一文を今でもはっきりと覚えている。
「広い店内には客は一組ほどしかおらず、決して混んでいるというわけではない」
この随想を読んだ時分、この一文が、ぼくにはどうしてもしっくりとこなかったのである。現在はそれほどでもないが、それでも、多少違和感を覚えないこともない。

広い店内に客が一組しかいないのであれば、一組 「ほど 」という表現は不自然である。
「三組ほど」、或いは「三組か四組ほどしかおらず」、というふうに使うべきである。また、広い店内に客は一組しかいないということが分かっているのに、 「決して混んでいるというわけではない 」という描写も、どこかまどろっこしい。

「広い店内には、客は一組しかいない 」
ぼくはこれだけで十分だと思う。後の空白部分は、読者介入の余地である。無駄な描写を一切省略して、読者のイマジネーションを掻き立てる手法が、時には必要なのである。

司馬さんをつかまえて、随分と偉そうなことをほざいてしまったが、ぼくは小学生の頃から彼のファンである。往時、司馬さんは産経新聞に『竜馬がゆく』を連載されていた。挿絵は岩田専太郎さんだった。毎日、夕刻になると、母が新聞の連載小説をぼくのために朗読してくれた。母は高知の人間であったので、竜馬には特別な思い入れがあったようだ。

歴史小説を書いていると、歴史学者からクレームが寄せられる。事実無根なことは書くな。と言うわけである。けれども司馬さんは歴然として答えられた。小説はフィクションであると。全くその通りである。

もし、聖書がフィクションであったとすれば、もはや聖書は神の言葉などではない。だが、この聖書と言う書物を読めば読むほど、世界の文学(フィクション)が、より一層理解できるようになるのである。それほど聖書は世界の文学者に、いや、あらゆる分野の人々に、多大な影響を及ぼしてきた。言うまでもなく、聖書は神の霊感と啓示を受けて綴られている書物であるからだ。

従って何よりも一番大切なことは、神の御前に立ち帰って悔い改めることである。次に、イエス・キリストをわが罪の贖い主として受け入れることが肝要なのである。聖書には、私たちの目から鱗(うろこ)が落ちる内容が、次から次へと語られている。何はともあれ、まず聖書を正しく読むことが先決である 。 私たちの人生において、聖書を熟読玩味することは、まことに意義深いことなのである

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