六、七年前の話である。日本からロサンゼルスに商用で来ていた知人のYが言った。
「ビバリーヒルズの○○○チャーチで、結婚式を挙げたい 」
Yは日頃から婚約者と、新婚旅行を兼ねて西海岸で挙式するプランを話し合っていたらしい。
Yはこの度の出張で、自分たちの結婚式を挙げるのに相応しい教会を見つけたのである。Yは早速、その教会で結婚式を挙げられるかどうか尋ねてほしいと、ぼくに頼ってきた。
ぼくはまず、その教会が一般に向けて結婚式場としてのPRを行っているかどうか、情報の収集をしてみた。しかし、そのような情報は得られなかったので、Yと一緒にビバリーヒルズの教会を訪ねてみることにした。
そこは、サンタモニカ大通りに面した立派な教会であった。小さな中庭を通り抜けて回廊に出ると、入口のドアが開いていた。ぼくは少し躊躇いながらも、Yと一緒に薄暗い礼拝堂の中へ入っていった。大通りでは自動車が頻繁に走っているというのに、礼拝堂の中はまるで深い森のように寂然としている。
聖堂内側の壁は全体にわたって、淡いサーモン・ピンクの色に染められており、古刹のような霊験あらたかな雰囲気が漂っている。祭壇の横には、ひときわ凛と目を引くキリスト磔刑の銀のオブジェが、明り窓から射し込んでくる柔らかな落陽の光華を浴びていた。
ぼくは礼拝堂から出ると、人がいそうな部屋を見つけてノックをした。ドアの内側に人気を感じるものの、誰も出て来てくれない。分厚い木のドアであったので、ぼくはもう一度力を込めてノックをしてみた。
しばらくしてから、重たい木のドアが鈍い音を立てて開いた。目の前には黒い服を着た神父さんが立っていた。神父は随分と不機嫌そうな表情だったので、ぼくは挨拶もそこそこに、こちらの要望を神父さんへ手短に伝えた。
すると、神父の形相が一層険しくなった。神父は床から一段下に立っているぼくたちを見下ろしながら、仁王立ちになっている。
「我々は外部の罪人どもの結婚式には立ち会わない。帰りなさい 」
神父はこの世の皺という皺を全部眉間にかき集めたような仏頂面で、ぼくたちを見下すようにしてそう言うと、重たい木のドアをぴしゃりと閉めた。
きっとこの教会には、著名人やお金持ちの会員がたくさんいることだろう。門前払いとは正しくこのことである。それにしても、よほど虫の居所が悪かったのだろうか、神父の横柄を捌(さば)く態度に、ぼくは辟易の一言に尽きた。
Yの方はというと、少し残念に思っていたようであるが、それから数ヶ月後に、ハワイで挙式を済ませたという知らせが届いた。
ぼくの母が受洗した時の教会の牧師は、若い頃にこのビバリーヒルズの教会のように、高額所得者たちの会員が集う教会の副牧師をしていた。その教会では執事や各役員を選出する度に、その人物の学歴や地位、そして職業が大きな基準になっているらしい。
副牧師は夫人と共に教会に住み込んでいたが、次から次に子供が産まれて、五人の子宝に恵まれた。けれども教会の信徒たちは、副牧師夫妻に対して 「犬や猫のように子供を産むな 」、と非難の声を浴びせた。いや、終始いびられっぱなしであったと言った方が適切である。
いたたまらなくなって、副牧師とその家族はやがてその教会を出ることにした。その折に、信徒の何人かが副牧師と共に教会を脱退して、新しい教会を旗揚げしたのである。
ぼくの尊敬している女性の一人に皇后様がいる。たとえ美智子様のような良家の子女であったとしても、天皇家との身分の格差から、御成婚後の皇后様の計り知れない心労に、国民は同情の念を抱いている。
美智子様の一番好きな御言葉は、 「こころの貧しい人たちは、さいわいである 」(マタイ5:3)だそうだ。以前、ぼくは皇室伝道に情熱を傾けておられる滝本明師から伺ったことがある。
そもそもキリスト教では、アダムとエバがエデンの園で善悪を知る木の実を食べてから性悪説が始まった。従って人間の本質は聖職者であれ信徒であれ、総ての者が罪人なのである。それ故に、家柄や、学歴、そして社会的地位などを鼻にかけて、自分よりも劣っている者を見下してしまう傾向がある。
だが、クリスチャンであるならば、隣人に対してどう接するべきなのか、聖書を読めば即座に理解し得るはずである。論語読みの論語知らずという慣用句があるが、人間の罪は正に聖書読みの聖書知らずであるといってよい。
パウロはローマ書(7:15~25)の中で、人間の心の相剋について煩悶している。日頃、御言葉や聖霊に敏感になることは極めて大切なことであるが、時としてパウロのように、吾が罪の醜さを鋭敏に察知して、心の底から真剣に苦悶しながら、悔い改めることが緊要であるとおもう。
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